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張芸謀「紅いコーリャン」:莫言の小説を映画化



張芸謀の映画「紅いコーリャン(紅高粱)」は、中国映画を代表する傑作という評価が高い。しかしその映画が、露骨な反日映画であるということは、我々日本人にとっては、あまり愉快なことではない。この映画の中の日本人(日中戦争時代の日本兵)は、人間の心を持たぬ鬼畜のような連中として描かれており、その鬼畜どもに中国民衆が塗炭の苦しみと耐え難い屈辱を強いられたということになっている。しかも、この映画が作られたのは1987年のことであり、日中戦争の終結から40年以上も経っていた。日中両国の関係にとって、この歳月がどのような意味を持っていたのか、改めて考えさせられるところだ。

この映画の原作となったのは、ノーベル賞作家莫言の代表作たる同名の小説だ。莫言がノーベル賞を受賞したのは一昨年(2013年)のことだが、その年のノーベル賞の本命と言われた日本人作家村上春樹を出し抜いての受賞とあって、日本でも大いに評判になったものだ。だが、この映画の原作となった作品を始め、彼の作品の多くが中国人の反日感情を描いているということについては、当の日本では、何故かほとんど話題になることがなかった。莫言のノーベル賞受賞がきっかけになって、日本の戦争責任が、中国国内はもとより、世界的にも話題になっただけに、日本人のこの鈍感ぶりは、筆者にも聊か理解しがたいものがあると感じたところだ。

映画は、前半で中国民衆の因習的で愚昧な生き方を描き、後半で日本軍の非人間的な所業を告発している。前半で描き出された中国民衆の生き方は、魯迅が数多くの作品の中で風刺した、魯迅でなくともため息の出るような愚かでかつ卑屈な生き方である。原作者の莫言と映画作家の張芸謀は、そうした魯迅の告発したような生き方が、いまだに中国民衆によって脱却されていないと風刺することによって、中国の近代化の遅れを批判しているつもりなのだろう。魯迅がたびたび言及している、子どもの名前を生れた順番や生まれた時の体重にもとづいてつけるというような風習も、この映画の中で紹介されている。主役格の女性の名は九児(チゥアル)というのだが、それは九番目に生まれたという意味なのである。

前半では、中国人同士のかかわり合いが描かれる。それは、金持がロバと引き換えに貧しい家の娘を買い取る話であったり、山賊による収奪の話であったり、主人公の女性を中心とした地方の人々のつつましい生き方であったりする。それらの話は、中国人の目から見れば、それぞれに意味を含んだ豊かな内容の話なのだろうが、そこへ日本軍が登場してくると、中国人は十把一からげにさせられて、単なる数字になってしまう。ひとりひとりの中国人の顔は見えなくなり、日本人によって牛馬の如く使役させられる抑圧の対象でしかなくなる。

この映画の舞台は山東省と言うことになっているが、そこのコーリャン畑地帯(この映画の舞台)に日本軍が侵略してきて、土地の中国人を収奪する。その場面を見ていると、筆者のような日本人の眼には、荒唐無稽なものとしか見えない。日本人への憎悪感が、場面の展開をそうさせているのだと思う。日本の軍人は、自分たちを日本語で皇軍だと称し、中国人を日本語で使役に駆り立てている。彼らの発する言葉と言えば、早くしろ、とか、馬鹿野郎、というようなものばかりだ。恰も日本人は、そうした、人を侮辱する言葉しか知らないとでもいうように。

最も陰惨なシーンは、中国人の反抗分子を、日本人が見せしめにするために、その皮を剥ぐよう同じ中国人に強要するところだ。皮を剥がされるのは、映画の前半で出て来た二人のキャラクター、山賊の三炮(サンパオ)とかつて九児がなにかと世話を焼いてもらった恩人格の人物羅漢(ルオハン)だ。この二人は、中国人としては対立する関係にあったわけだが、日本人を前にしては、同じ中国人として日本人に敵対する関係にある、というように描かれる。

人間の皮を剥ぐ話は、村上春樹も「ねじまき鳥クロニクル」の中で展開している。村上の場合には、ソ連側に捕えられた日本軍のスパイが、ソ連兵の命令を受けたモンゴル人の手で、少しずつ皮を剥がれるということになっている。それはそれで十分に陰惨なのだが、村上の場合には、軍人が敵国の軍人によって拷問されるという話だ。ところが、この映画の場合には、皮を剥がれるのは、反抗したとはいえ一般の中国人であり、その皮を剥がすのもまた普通の中国人である。つまり、日本人が中国人に対して非人間的な行為を強要しているわけで、その点では村上の小説とは比較にならないくらいイモラルな行為と言える。そんな行為を平然と行う日本人は、一人の人間として向き合うに値しない、そんな風なメッセージが強く伝わって来る。

映画を通じて戦争責任を糾弾された国としては、ドイツのほうが先輩で、第二次大戦終了直後には、ロベルト・ロッセリーニが反ドイツ映画を作って、ドイツ人とは、トータルに言って、悪魔の集団なのだというようなメッセージを、世界に向かって発していた。そのメッセージが、ドイツ人に対するイメージを極端に悪くする要因として働いた事実も指摘できるのであるが、それはもう遥かに昔のことだ。今では、ドイツとかつてのその敵国とは基本的に和解して、相手を悪魔だなどといってけなすようなことは、誰も行っていない。ところが、中国人は、日中戦争中に、日本が中国人に対して行ったことをいまだに忘れずにいて、ことあるごとに、それを表現しようとしているわけだ。日本人として、これをどう受け止めるべきか、この映画は、そんなところを思いおこさせる。



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