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罪の手ざわり(天注定):賈樟柯



賈樟柯は、いくつかの人生をオムニバス風に結びつけて一編となすような作品作りが好きなようだ。2013年につくった「罪の手ざわり(天注定)」もそうした作り方をしている。この映画には四人の人物をめぐる物語が、相互にかかわりなく展開される。人物の間に共通の出来事も起らないし、人物同士に共通した性格も見られない。まったく無関係な人々がそれぞれ無関係に生きているところが脈絡もなく展開されるだけだ。

冒頭にバイクに乗った男が出てきて、山の中で三人の追剥に脅される。男は眉ひとつ動かすことなくその追剥どもを次々と拳銃で射殺する。一体これからどんな物語が始まるか、観客としては一気に興味を掻き立てられるところだが、画面はいきなり別の話へと切り替わる。画面のワープといったところだ。

新しい画面の中心人物は炭鉱の作業員らしい人物で、その男は炭鉱を不当に横領した奴がいると信じ込んでいる。炭鉱の所長が村長とぐるになって、炭鉱の権利を若い実業家に売り飛ばしたと言うのである。そこでその作業員は彼らの悪行を中央政府に直訴しようとするが、なかなか思うようにいかない。そこでついに思い余って、この汚職に関わった連中を猟銃で一人づつ射殺して回る。最初に炭鉱の所長とその妻、次に彼を日頃バカにしている炭鉱夫、村長、そして実業家である。何故彼がそれまでして自分の正義を貫こうとしたのか、それは画面からはストレートに伝わってこない。ただ彼が資本家やそれとぐるになっている連中を憎んでいることだけが伝わってくる。

こういう不正は改革開放後の中国ではよくあったらしいので、この映画はそうした新しい時代の腐敗を糾弾したつもりなのかもしれない。面白いことに糾弾の対象は資本主義的な腐敗分子であって、共産党ではないことだ。

次に、最初に出て来たオートバイ乗りが再び現われる。彼は出稼ぎから田舎の家族のもとに戻ってきたのだが、地元の人々ばかりか一人息子ともしっくりいかないものを感じる。そこで再び旅へ出ると、銀行から出て来たばかりの夫婦連れを拳銃で射殺して金を奪って逃げる。ただそれだけだ。彼が何故そんな真似をしたか、画面からは伝わってこないので、この男は人を殺すことに快感を感じるタイプの人間だと思わせられるほどである。

三番目に出てくるのは年増女で、長い間付き合っていた男に捨てられてしまう。自分の人生をその男に賭けたにかかわらず、屑のように捨てられてしまうのだ。あまつさえその男の妻から手ひどい目に合わされる。そしてサウナ風呂の受付としてアルバイトをしていた時に、客にからまれてひどい目にあわされ、そのはずみにその客をナイフで刺し殺してしまう。その場面がいかにもえげつない。それを見ていると、中国人という者は女を一人の人間とは見ていないというふうに伝わってくる。なにしろ金さえ払えばどんな女も自分の意になると思っているのだ。

四番目に出てくるのは若い工員で、これが工場をやめて風俗店でボーイをしているときに、そこの若い女を好きになる。だが女には三歳の娘がいて、その子を養うために売春をしているのだと開き直る。それと不良どもに脅かされて人生に絶望したその若い男は、アパートの天井から身を投げて自殺してしまうのだ。

この四人の他にも幾人かの人間たちが出てくるが、それらはこの四人以上に互いにかかわりがない。と言った具合でこの映画は、全くかかわりのない人々の、相互に全くかかわりのない話を、ただ無秩序に並べていると言った印象を与える。とにかく変わった映画である。

ひとつこの映画が、すくなくとも我々日本人に感じさせるのは、中国人独特の人間関係だ。この映画の中の中国人たちは、社会的な倫理観があるようには見えない。みな自分勝手に生きているといった具合である。強い人間は自分の好きなようにやりたいことをするし、弱い人間は強い奴に踏みにじられても文句が言えない。文句を言えるほどの甲斐性があれば、人から足蹴にされることはないというような覚めた人間観が、この映画からは伝わってくる。

なお原題の天注定とは天の定めと言った意味。中国には「人生自有天注定、貧富也是天注定」という諺があるそうで、この題名はそこからとったらしい。




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