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中国映画「唐山大地震」:地震で引き裂かれた家族



2010年の中国映画「唐山大地震」は、1976年7月28日に起きた唐山地震をテーマにしたものである。この地震はマグニチュード7・5の直下型大地震で、中国政府の公式発表で25万人の死者を出したと言い、実際にはその二倍から三倍の死者が出たのではないかと憶測されている。いづれにしても20世紀最大の被害を出した地震であった。映画はその地震によって引き裂かれた家族とその再会を描いている。

唐山は天津の東側に隣接する河北省の工業都市で、長い間地震に見舞われたことがなく、建築物が耐震性を考慮していなかったせいで、建物倒壊による被害が甚大な規模にのぼった。この地震による死者の殆どはそうした建物倒壊による圧死だと考えられている。その点は、地震に伴う火災や津波の被害が大きい日本の地震災害とはかなり異なっている。

映画は地震の前触れを思わせる自然現象の描写から始まる。イナゴが異常発生し、空が紫色に染まる。その直後に地震が町を襲う。地震が起きた時、ダーチアンとユェンニーの夫婦はトラックの荷台でセックスをしていたが、揺れの大きさに驚いてトラックから抜け出すと双子の子どもの救助に向かう。双子の子どもとは、六歳くらいになるドンとダーの姉弟だ。彼らが寝ていたアパートは地震の揺れによって崩れ落ちる。助けに入ろうとしたユェンニーを制止したダーチアンは、崩れて来た建物の破片に打たれて死ぬ、双子の姉弟も瓦礫の下敷きになる。

下敷きになった子どもは、巨大な瓦礫片の両側に並ぶようにして埋もれており、一方を助けようとすれば、もう一方が犠牲になると言う二律背反的な立場に置かれていた。どちらか一方しか助からないと言われた母親のユェンニーは、弟のダーを助けて欲しいと答える。そのやり取りをドンとダーの二人は瓦礫の下で聞いている。ドンは自分が母親から捨てられたのだと受け取る。

こうしてダーは助けられたが左腕を失う。一方ドンのほうは、死んだと思われて死体置き場に運ばれ、父親の死体のそばに横たえられる。ところが彼女は死んではいなかった。奇跡的に生きていたのだ。だが立ち上がった彼女は母親を探そうとはせずに、軍の運営する孤児養護施設に収容される。

こうして生き残った家族は離れ離れになる。母親とダーは唐山に残ってアパートを借りて暮らし、ドンのほうは二人とも軍人である夫婦に養女として引き取られて成長する。この映画の中では、軍は唐山地震の犠牲者に寄り添うやさしい存在として描かれている。個々の軍人も心優しい人たちなのだ。

ダーはダーチアンが残した一粒種というので、ダーチアンの母親、つまりダーの祖母が引き取りに来る。その理屈が面白い。ダーはユェンニーの息子である前に、ダーチアンの家の跡取りなのだ。家の跡取りであることは母親の息子であることに優先するから、母親はダーチアンの家にダーを引き渡さねばならないというわけである。この理屈に母親のユェンニーは逆らえない。一度は息子を引きわたしてしまうが、ユェンニーに同情した義妹の計らいで返してもらえる。こうして母子二人の生活の中からダーは成長する。しかし成長したダーは、母親の望みに反して大学に行こうとしない。自分で事業を起こすのだと言って親元を去ってゆく。

一方ドンのほうは、軍人夫婦に引き取られた当初は打ち解けないでいたが、そのうち養親に心を開き成長する。成長した彼女は医者になるのをめざして杭州の医科大学に入る。そこで出会った大学院生の子を妊娠するが、その学生は責任を取ろうとしない。結局彼女は捨てられてシングルマザーの道を歩むことになる。

唐山大地震から32年後、四川で大地震が起きた。その時に事業家として成功していたダーはすぐさま現場に救援に入る。彼は自分が人に助けられたことを忘れずにいて、今度は自分が助ける番だと思ったのである。一方ドンはカナダ人と結婚してヴァンクーヴァーにいた。夫から四川地震のことを聞かされた彼女は、やはり救援にいくことを決断する。カナダ人の夫はそのことを許してくれた。

こうして姉と弟とが四川地震の救援現場で劇的な再会を果たすのである。姉は弟に導かれて母親に会いに行く。32年ぶりに娘と会った母親は、どう自分を表現してよいかわからずに感情を爆発させるのである。

この粗筋からわかるように、この映画は中国人の親子関係を描いたものである。親子の間柄は何にもまして貴重なものだ、という考え方のようなものがこの映画からは伝わってくる。それと同時に、中国人の結婚観も伝わってくる。子に対する権利は父方の家に属し、嫁は夫に死なれたら単身家を出なければならぬ。そういった極めてドライな家族関係がこの映画からは伝わってくる。嫁の立場が弱いということでは、ひと昔前の日本もそうだったが、中国ではごく最近までは無論、今でもそうなのかと感じさせられるところだ。

一方、他人同士の関係は極めてドライだ。結婚していない男女は、互いに相手に対して責任を負わなくともよい。女が自分の望まぬ出産をしたときには、面倒を見てやる必要はない。そういったきわめて一方的で無責任な男が大した批判もなく描かれている。とにかく同じアジアでありながら、日本とはかなり異なった価値観が流通していると感じさせられる。



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