壺齋散人の 映画探検
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帰ってきたヒトラー(Er ist wieder da)



先日ドイツのある街角でヒトラーそっくりに扮装した男が逮捕されるという事件があった。こういうことを聞くと、ドイツではいまだにヒトラーがタブーなのだと感じさせられるが、この映画「帰ってきたヒトラー(Er ist wieder da)」は、そんなタブーをあざ笑うようなものといえる。なにしろあのヒトラーが現代のドイツに生き返り、さんざんやりたいことをやりながら、人々の喝采を浴びるというのであるから、見ようによってはヒトラー礼賛映画だといってよい。そんな映画が許されて、ヒトラーの扮装をしただけの男が逮捕される、というのはある種カフカ的世界と言えまいか。

この映画が公開されたのは2014年だ。その21世紀のドイツにヒトラーがどういうわけか生き返った。彼は1945年の5月にベルリンの首相官邸の地下で愛人のエヴァ・ブラウンと心中したのだったが、何故か自分だけが、自殺した場所のすぐそばで生き返ったのだ。生き返った彼は、生前の記憶をなまなましく保持しており、まだドイツ総統のつもりでいる。そんな彼を周りのものは奇異な目で見るが、彼自身は現代のドイツを見て、そこに許し難い堕落を見る。そこで、総統としての目から、現代ドイツを痛烈に批判するわけだが、それが現代のドイツ人の目には、痛快なお笑いダネにうつるわけだろう。

そんなわけでこの映画は、ヒトラーダネによるお笑い劇場のようなものなのだが、それを現代のドイツ人が大した疑問もなく、笑いながら見ている。そういう光景が浮かんでくるわけで、見ているほうとしては、筆者のような非ドイツ人でも、不思議な気持にさせられる。なにしろその一方では、ヒトラーの扮装をしただけで逮捕されるという状況があるわけだから、いっそう不思議な気持ちが強まるわけである。

2014年には「顔のないヒトラーたち」も公開されたりして、ヒトラーものがちょっとしたブームになった。この映画もそのブームに乗ったのだろうが、「顔のないヒトラー」が、ナチスに対する厳しい批判意識を感じさせるのに対して、この映画にはそういう批判意識は希薄だ。ヒトラーをもっと鷹揚に見直そうではないか、そんな意図が伝わってくる。

この映画では、現代社会への批判があちこちで出てくるのだが、それをヒトラーの口から語らせるので、見ているほうとしては関節をはずされたような気持になる。この映画の中のヒトラーは、人類の敵対者ではなく、知的な評論家といった風情をかもし出している。彼はその知的な目で、現代ドイツ社会の腐敗を告発し、自分がドイツのことをいかに愛しているか、を強調する。つまりこの映画の中のヒトラーは、なによりも愛国者として描かれているのである。

そんな愛国者のヒトラーの目には、いわゆるネオ・ナチなどは中途半端で頼りない存在だ。そのネオ・ナチにヒトラーは袋叩きにされるのだが、そんなことでへこたれるヒトラーではない。彼は自分の信念に忠実に振る舞い、正義の味方として人々の拍手喝采を浴びるのである。

こんなふうに整理すると、この映画をなんと呼んだらいいのか。ヒトラーの生き返った21世紀のドイツ、それは無論ユートピアではないが、かといって昔のヒトラーが生きていた時代のディストピアでもない。あえていえばアンチ・ディストピアということになるのか。生き返ったヒトラーはそのアンチ・ディストピアのヒーローとして、新たな時代を切り開くエネルギーにあふれている。なにしろヒトラーにかかっては、宰相のメルケル女史も「陰気なデブ女」に過ぎない。

こんなふうに見ると、この映画を作った連中は、ヒトラーに共感している点でネオ・ナチを思い出させるが、映画の中のヒトラーはネオ・ナチには否定的だ。その否定が、ネオ・ナチが十分にヒトラー的ではなく、したがってもっとヒトラー的になって過激な主張をすべきだという意味だとすれば、それはそれで一つの見識とはいえよう。

ヒトラーを演じたオリヴァー・マスッチは、顔つきはヒトラーに似ていなくは無いが、結構大男なので、小男だったヒトラーのイメージとは多少ずれているところがある。だがそのせいで、威風堂々とした正義の味方というイメージは増幅されているといえよう。





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