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ドイツ映画「最後の08/15」:ドイツ軍の敗北



08/15シリーズ第三作「最後の08/15(08/15 In der Heimat パウル・マイ監督)」は、ドイツ軍の敗北を描く。前二作におけるアッシュ所属の部隊がここでも映画の舞台となる。この部隊は、敗戦直前にロシア戦線からドイツ国内に移動し、国内でせまりくる連合軍の影におびえ、最後には全員が米軍の捕虜になるのであるが、部隊の秩序崩壊ぶりは、前二作以上に深刻である。

部隊内では上下関係がほとんど崩壊し、兵士たちは自分の私的利益だけをはかる狼の集団のごとく描かれている。すなわち、兵站武門の兵士は備蓄品を隠匿して自分の私益を図ろうとし、部下の信頼を失った上官は自分の命のことだけを考える。そのために、自分にとって都合の悪い者を、何の躊躇なく殺したりする。そのなかでいまは少尉となったアッシュだけが、覚めた目で戦争をみつめ、いささかでも正義を実現しようと努力する。しかし、その努力も時代の大きな流れに押し流され、アッシュ自身も捕虜となってしまうのだ。

この映画の面白いところは、第二部ではロシア戦線でのソ連軍との戦いを描きながら、第三部ではドイツ国内での対米降伏を描いていることだ。戦争の本体としては対ソ戦争を前面に押し出し、ドイツの敗北についてはアメリカに花を持たせているわけで、これはおそらく冷戦と対米配慮の結果だろうと思われる。ドイツが戦った相手はソ連なのであり、屈服したのはアメリカなのだと言いたいのだろう。

それにしても、この映画の中におけるドイツ軍の腐敗振りは目を覆いたくなるばかりだ。ドイツ兵たちは、アッシュのような例外を除いては、だれも愛国心などというものを信じていない。信じているのは自分の命のありがたさだけだ。これはドイツ流個人主義の表れなのだろうが、同じ敗戦国として、最後まで兵士の愛国心が、すくなくとも表向きは、ゆるがなかった日本軍との強烈な相違を感じさせられる。どちらがよいと言うのではない。国民性の違いを指摘するまでのことである。

捕虜となったドイツ兵が、かなり自由に行動しているのが面白い。大岡昇平などが描いている日本軍の対米捕虜生活は、海外でのケースが殆どだったということもあるが、かなり厳しい規律が貫徹していた。その規律の一部を日本兵自身が支えたわけだが、日本兵の場合には、主人たる米軍の意向にそって捕虜生活を規律した。米軍にとっては模範的な捕虜ばかりだったわけだ。

ところがドイツ軍は、同じく米軍によって一定の自治を与えられるのだが、その自治を逆手にとって、かなり勝手なことをしている。その挙句、ドイツ兵同士の間で殺し合いが起こる。もっともその殺し合いは、自分の私益のために仲間を何人も殺してきた上官に対して、意趣を抱いていた兵が報復するという形だったわけだが。どちらにしても、捕虜同士が殺しあうなどというのは、日本軍の間では起きなかったはずだ。その辺も、ドイツと日本の相違を感じさせられるところだ。



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