壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真ブレイク詩集西洋哲学 プロフィール掲示板




四方田犬彦「映画史への招待」


「映画についての言説が、はっきりと過去の作品を対象とし、それを歴史的なものとして認識しようとする姿勢に転じたのは、映画が考案されてかなり時間が経過したのちに、ようやく現れた」と、「映画史への招待」の著者四方田犬彦は言う。それまでは映画の歴史が語られることはなかった。ということは、映画は歴史の厚みをもたない薄っぺらなエンタテイメントであり、その映画についての語り方も、相応に薄っぺらなものだった。たまに映画の「歴史」について語るものが現れても、それは本物の歴史家にとっては、「好事家のディレッタント趣味に満ちた印象の寄せ集めであって、どこまでも日曜仕事の域を出ないものであった」というわけである。

映画の歴史に自覚的な著者は、映画が考案されて100年がたち、ようやく映画史が自覚的に語られる段階に至ったことを喜んでいる様子なのであるが、皮肉なことに、映画史が語られるようになったときには、映画はすでに斜陽の段階に突入していた。インドを中心としたアジアでは映画作りはまだまだ盛んであるし、近年はナイジェリアなどのアフリカの国でも映画つくりが盛んとなってきてはいるが、本場というべき欧米諸国では、映画の製作本数は激減している。そこで今では、(少なくとも欧米では)映画というものは、新作を劇場で見るよりも、旧作を家庭で楽しむことが主流となりつつある。その点では映画は、オペラと同じ運命をたどっているように見えると著者はいう。現在ではオペラは、新作が作られることはなく、古い時代に作られた作品を再現しているだけである。それと同じように映画も、古い時代に作られた作品を鑑賞するということが中心になりつつある。

これは、映画それ自体にとっては、あまり望ましいこととはいえないかもしれないが、映画史の研究にとっては、ある意味望ましいと著者は考えているようだ。映画つくりが盛んな時代には、映画はなによりも消費の対象であったわけで、日々上映される作品を次から次へと鑑賞することに、消費者としての観客のエネルギーが費やされてきた。そこでは映画の現在がすべてなのであり、映画の過去が現前する余地は殆どなかったわけである。ところが映画が新たに作られることが少なく、古い作品のストックを鑑賞することが中心になってくると、勢い映画を突き放した眼で見る姿勢が強化される。映画は、過去の時代がもたらしたストックとして、歴史的な所産として見られるようになったわけであり、従って映画の歴史が語られやすくなった、と著者は考えているようなのである。

こうなると、映画史の方法は従来のような無邪気なものではありえない。従来の映画史の典型例は、「いわゆる世界の『名作』だけを集めて、山の頂と頂とを連ねていけば映画の発展が語れるという無邪気な立場」のものであった。著者はその代表として佐藤忠雄の「世界映画史」をあげている。こういう方法に著者が対置するのは、映画をすぐれて歴史的・社会的存在として、時代の動きと関連させながら読み解くというものである。そうした方法にとっては、所謂「名作」だけを考察の対象とするわけにはいかない。凡作・愚作を含めて、様々な映画を取り上げつつ、それらが全体として時代の動きとどのような関連を持っているか、それを読み解くことが重要となる。

それ故著者の方法は、映画の内在的な分析に終始するのではなく、映画の外在的な限界にも眼を向けるというものである。映画と時代との接点、それを明らかにすることが「映画史」に課せられた最大の役目ではないか、と考えるわけである。そんなわけで、この著作で著者が展開している議論は、個々の映画の名作をめぐる印象批評といった従来のやり方とは全く異なっている。個々の映画が話題になる場合でも、その映画の所謂内在的な価値に拘泥するのではなく、その映画が映画史にとって持っているメルクマールとしての価値に重点を置いている。

こうした立場から著者は映画史を論じるわけだが、この著作の中で展開されている議論は、著者があるテレビ番組の中で行った連続講義を基にしているという。その講義は12回にわたるもので、映画が、時代との密接な関連のもとで、どのように作られ、鑑賞されて来たかを取り上げたものである。「ファシズムの魅惑」、「日本映画と弁士」、「歌舞伎と映画」、「観ることの歴史」といった表題を眺めただけでも、この映画史が「名作」のつながりとしての歴史ではなく、映画と時代とのかかわりの歴史だということがわかる。

この著作の最大の特徴は、映画史の不可欠のプレーヤーとして観客に眼を配っていることである。映画が、基本的にはエンタテイメントとして、その時代の観客の期待に応えようと努めてきたことを思えば、これは当然のことなのであるが、従来の映画史はこの当然のことを軽視してきた、というのが著者の意見である。

映画は、エンタテイメントの一様式として、ほかのエンタテイメント、つまり大衆芸能と深い関連を持っている、とも著者はいう。たとえば日本については、歌舞伎や新派劇が初期の映画に多大な影響を与えたことが指摘できるし、その際に歌舞伎や新派劇の享受者であった膨大な観客層がいたからこそ、映画が社会的に認知され、普及していくことができたのだ。もしこうした伝統がなければ、日本で映画が隆盛することはなかったかもしれない。そういう点でも映画は、時代の動きや歴史的な背景に大きく制約されている、というのが著者の意見である。

ともあれこの本を読むと、いわゆる「名作」だけではなく、戯作というべき大衆的な作品にも相応に見る価値はある、ということがわかる。





HOME映画についての覚書









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2016
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである