壺齋散人の 映画探検
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霧の波止場(Le Quai des Brumes):マルセル・カルネ



映画には国民性といってよいようなものがある。国民性を映し出しているような映画がある、と言い換えてもよい。アメリカの場合には西部劇がそれにあたるだろう。日本の場合にはチャンバラ時代劇がそれだろう。では、フランスの場合にはどうかといえば、それは男女のロマンスだ、と誰もが答えるだろう。それほどフランス人は男女のロマンスが好きだ。フランス映画で、男女のロマンスの要素がないものは、駄作であるか、あるいは変った映画であるか、そのいずれかである。

西部劇では、むくつけき男たちが拳銃で撃ちあう。チャンバラ時代劇では、ちょん髷を結った男たちが刀を振りかざして切りあう。手にするものは違うが、どちらも男の戦いを描くことでは共通している。戦いを描くことが映画の目的であって、それ以外の要素はどうでもよい。といって悪ければ、非本質的な要素にすぎない。

では、男女のロマンスの場合には、何が本質的な要素だろうか。いうまでもなく、男女の愛である。男女が愛し合うこと、それが男女のロマンスの本質的な要素なのである。この本質的な要素を巡って、フランスの映画監督は、自分の才能のありったけを注ぎ、そこから観客をうっとりとさせるような、男女の悲しい愛の物語を紡ぎだすのである。

物語といったが、それは筋書きの複雑さを云々しているわけではない。男女のロマンスにあっては、あまり複雑な筋書きはかえって、ロマンスの味わいを壊してしまう。筋書きはなるべく単純化して、男女の愛のやり取りに力を注ぐ。それが、男女のロマンスを主題とした映画の正しい作り方である。

この、男女のロマンスの正しい作り方を、もっとも忠実に実行したフランスの映画監督、それがマルセル・カルネ(Marcel Carné)だといってよい。彼は、生涯にわたって男女のロマンスを描き続けたが、その作品は、驚くほど互いに似通っている。筋書きは非常に単純で(「天井桟敷の人々」のような例外はあるが)、ただただ愛し合う男女の表情に焦点を当てている、といった具合なのだ。彼らは一目で愛し合い、ひと時恍惚とした時間を共有し、最後には不幸な別れ方をする。どの映画をとってみても、だいたいこんなふうな作り方になっている。男女のロマンスに、うるさい理屈は必要はないからだ、といわんばかりである。

「霧の波止場(Le Quai des Brumes)」は、そんなマルセル・カルネの二作目の映画だが、上述したような映画の作り方が典型的に見られる作品だ。軍隊から脱走した兵士と家出中の娘とが霧のかかった波止場町の一画で出会い、たちまちに恋に陥り、しばし恍惚とした時間を過ごした後で、男のほうがならず者の手にかかって殺されてしまう。男女のロマンスにハッピーエンドはありえない、ということが至極率直に伝わってくる作品だ。

とにかく、男女の愛というものは、不合理な要素に包まれているものだ。まず、彼らがなぜ愛し合うようになったのか、それを説明できる者などはいない。というより、説明できる愛などというものは、本物の愛ではないのだ。そして、いったん愛し合うようになった二人は、もはや離れるわけにはいかない。彼らが離れるのは、どちらか一方が死ぬ時だ。そして、男女のロマンスにはハッピーエンドはなく、したがって男女がついには離れなければならないとしたら、どちらか一方が死ぬほかはないのだ。この映画の場合には、男役のジャン・ギャバン(Jean Gabin)が死ぬことになっている。そのジャン・ギャバンは、映画のなかでもジャンと呼ばれている。

ジャン・ギャバンの相手役は、ミシェル・モルガン(Michèle Morgan)だ。彼女は、映画の中では17歳ということになっているが、実際には18歳だった。いずれにしても、日本的な感覚からいえば未成年者である。ところが、映画の中のミシェル・モルガンはとても未成年者には見えない。一人の成熟した女のように見える。つまり、色気を感じさせる。日本人の女優で、10代にして女の色気を感じさせた者に山田五十鈴があげられるが、山田五十鈴の色気が芸者の色気だとすれば、ミシェル・モルガンの色気は、不良少女の色気とでもいおうか。そのとおり彼女は、映画の中では、不良少女ということになっているのである。

ミシェル・モルガンの養父を演じているミシェル・シモン(Michel Simon)は、「悪魔の美しさ」では、悪魔の役を務めたが、この映画のなかでは養女の身体を狙うスケベ親父として描かれている。ミシェル・モルガンが不良少女になったのは、このスケベ親父のせいなのである。このほか映画の中には、チンピラやら気のいい男たちやらが出てくるが、彼らが映画の中で存在を主張するのは、あくまでも主人公たちの男女のロマンスを引き立てるという役回りの範囲内でのことである。

むしろ、人間ではなく一匹の犬の方が、自分の個性を主張していたように見える。この犬は、映画の冒頭で、ジャン・ギャバンのヒッチハイクしていたトラックに轢き殺されそうになったところを、ギャバンの機転によって助けられたのであるが、それがきっかけで、ギャバンを追いかけるようになったのであった。ギャバンが行くところには、この犬も必ずついていく。ギャバンと一緒にヴェネズエラ行の船にも乗る。そして、ギャバンが船を下りている間、その犬は主人の帰りを待ち続けるのだが、主人がついに帰ってこないと悟ると、自ら首輪を振りほどいて、脱兎の如き勢いで、船を下りて行くのである。あたかも、主人の運命を透視した忠実な家来のように。

こんなわけで、この映画は、男女のロマンスにとことんこだわった映画である。理屈抜きに悲しめる。男女のロマンスというものは、悲しい定めに彩られたものなのだ。悲しいのは当たり前ではないか。





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