壺齋散人の 映画探検
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夜毎の美女(Les belles de nuit):ルネ・クレールのコメディ映画



ルネ・クレール(René Clair)の真骨頂は、軽快な音楽を伴ったオペレッタ風のコメディにあるといってもよいが、「夜毎の美女(Les belles de nuit)」は、そんなクレールにとっての集大成のような映画だといえる。とにかく、理屈抜きに楽しめる。テーマが夢であるから、現実の制約など気にする必要がないし、思う存分空想を逞しくすることができる。実際この映画は、殆どクレール一人で手掛けたと言ってもよく、彼一流のコメディ精神が遺憾なく発揮されている。こんな映画は、日本人にはとても作れないだろうし、フランス人だって、クレール以外に作れる者はない。

夢を材料にしたドタバタ喜劇だから筋は大して問題にならないかというと、決してそうではない。この映画には、立派な筋があるのだ。それは、現実にうんざりしているある男が、夜毎の夢の中で次々と美女に会うことでその憂さ晴らしをするのだが、そのうちに、夢と現実との見境がなくなった挙句、最後には現実の方がすばらしいと気づく、というもので、起承転結をそなえたきちんとした筋書きを伴っている。筋書きがしっかりしているから、夢も荒唐無稽に終わらない。実際ジェラール・フィリップ(Gérard Philipe)演じる主人公の男は、夢の中でも大真面目なのだ。

その男は、クロードという名の音楽家で、小学校の音楽教師やピアノの家庭教師をするかたわらオペラを作曲している。しかし、なかなかうだつが上がらず、まわりから馬鹿にされて腐っている。そんな彼の周りには、三人の女性が存在している。近所の町工場の娘シュザンヌ(マガリ・ヴァンドゥイユ Magali Vandeuil)、ピアノを教えている娘の母親(マルティーヌ・キャロル Martine Carol)、そして行きつけのカフェのレジ係の女性(ジーナ・ロロブリジーダ Gina Lollobrigida)である。

この女性たちが、クロードの夢の中で繰り返しあらわれる。きっかけは、ピアノのレッスンの最中に見た白昼夢だった。そのなかで、娘の母親があらわれて、クロードと恋を語らう。すぐに夢から覚めたクロードは、目の前に夢の中の女性がいるのを見て、びっくりする。夢と現実との境がぼやけてしまっているからだ。

これに続いて、クロードは毎晩のように夢を見る。娘の母親は、夢の中では1900年の時点での、上流階級の貴婦人だ。彼女の夫はオペラ座の支配人で、彼の作ったオペラを上演してやろうと約束してくれる。ついで、19世紀半ばの時代に遡り、クロードはアルジェリア侵攻軍のラッパ吹きになっている。そのアルジェリアの王宮にはレイラ姫と言う美しい女性がいる。どういうわけか、その女性はカフェのレジ係の女性なのだ。現実のレジ係の女性には、色気も何もないが、夢の中のレイラ姫は色気満点だ。そのレイラ姫と、クロードは甘い恋を語り合う。続いて、時代はさらに遡り、フランス革命前夜、ルイ16世の宮廷にはシュザンヌと言う名の美しいプリンセスがいて、クロードと恋を語らう。このプリンセスは、現実の世界では、クロードに思いを寄せている町工場の娘で、名前も同じシュザンヌだ。

時代は更に次々と遡り、ダルタニアンが出てきたり、石器時代になったり、ついにはノアの洪水まで目撃するありさまだが、こんな風に時代がめまぐるしく遡っていくのは、「昔はよかった」という不思議な老人の言葉に促されてのことなのだ。

こんなわけで、夢を見続けているうちに、夢とうつつとの見境がつかなくなり、また、夢が恐ろしくなって眠るのが怖くなるといった具合で、クロードには現実感覚というものがなくなる。夢を見ていない時には大騒ぎを引き起こし、夢を見ているときには、恐ろしい目にあったりと、どこにどう身を置いてよいのかわからなくなるのだ。そんな折に、町工場の娘シュザンヌが手を差し伸べて、クロードをしっかりした現実へと引き戻してくれる、というわけなのである。

現実に目が覚めたクロードに、嬉しい知らせが待っていた。パリのオペラ座から面会したいという知らせが来たのだ。シュザンヌと一緒にクロードはオペラ座に赴く。そこで彼は、自分の作曲したオペラを、オペラ座で上映したいとの意向を聞かされるのだ。

こんなわけで、最後はハッピーエンドになる。コメディだから、当然といえば当然のことだ。ハッピーでないコメディなんて、形容矛盾そのものだから。そうクレールがいっているのが聞えてくるようだ。

オペラがテーマの一つになっていることもあり、この映画の中では、オペラ風の歌唱が聞かせどころとなっている。そこが、それまでのクレールのコメディと違うところだ。ジェラール・フィリップまでオペラ歌手気取りで、テノールで歌ったり、バスで歌ったりしていたが、あれは彼の肉声なのだろうか。

この映画の中では、クレール映画の常連レモン・コルディ(Raymond Cordy)は、近所の町工場の親父役で出てくる。彼は、娘がクロードに惚れているのが気に食わず、なにかと二人の恋の邪魔をする。音楽などと言うのは、仕事の部類に入らぬ。そんなものにうつつを抜かすような奴に、娘をやるわけにはいかぬ、というのだ。しかし、そんな親父も、クロードが一躍有名人になると知るや、踵を返したように機嫌がよくなり、クロードの弾くピアノの音に、恍惚となって耳を傾ける有様だ。

音楽がヤクザなことだと思っているのは、クロードの友人たちも同じだ。彼らにとっては、クロードが弾くピアノの音は、雑音以外の何ものでもない。だから、クロードがピアノを弾くと、もっと大きな雑音を巻き起こして、嫌がらせをするのである。そんな友人の一人に警官をやっている男がいる。彼は、「作曲なんて仕事と思えん」といって毒づく。すると別の友人が、「警官だってそうだろう」と茶化す。警官が仕事をしようとすれば、それは善良な市民にとっては災厄につながる、と言うわけなのだ。実際その警官の友人が仕事をする気になったおかげで、クロードは豚箱に放り込まれてしまうのである。クレールらしい皮肉というべきだろう。





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