壺齋散人の 映画探検
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ゴルゴタの丘(Golgotha):ジュリアン・デュヴィヴィエのキリスト受難劇



ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の映画「ゴルゴタの丘(Golgotha)」は、四大福音書に基づくキリスト受難劇である。キリストの受難は、ヨーロッパ絵画の長い伝統の中でも、最大かつ最重要のテーマとして、多くの画家によって描きつがれてきた歴史があるが、ジュリアン・デュヴィヴィエは、それを動く絵画として実現させた。キリストの受難をテーマにした映画としては、最初の本格的な芸術作品ではないか。

宗教劇であるから、普通の映画とはかなり異なった作り方をしている。筋書きは、福音書に書いてあることをそのままに再現し、福音書が伝えたかったことを、なるべきそのまま伝えるような仕方で表現されている。個々の人物の動作や心理よりも、当時の民衆の気持ちが集団的なスケールで表現され、イエス・キリストの受難も、宗教的な必然として淡々と描かれている。これはドラマなのではなく、福音の内容をそのままスクリーンに再現したものなのだ。これは、スクリーンを手段に使った伝道なのだ。作者のそんな気持ちが伝わってくるような作り方だ。

それゆえ、敬虔なキリスト教徒にとっては、この映画は、自らの宗教的な感情を呼び覚まされるような効果をもった特別の作品として受け取られる可能性が高い。それに対して、筆者も含めた異教徒の目には、どこか現実離れした、大袈裟な話だとしか映らないきらいがある。デュヴィヴィエの映画は、日本人にはもっとも人気のあった外国映画なのだが、この作品ばかりは、大した反響を呼ばなかったのは、これが多くの日本人には無縁な宗教的テーマを描いていたからだろう。

しかし、筆者のような者の目にも、ひとつ気にかかるところが見えてこないわけではない。それはこの映画が発揮したであろう歴史的・社会的な効果だ。

この映画が公開されたのは1935年。ナチスが政権を取って、反ユダヤ・キャンペーンがさかんになりつつある時期である。そうした時期に、こういう映画が作られたということには、特別な巡り合わせがあるのではないか。キリストの受難は、これを裏から見れば、ユダヤ人によるキリストの迫害であり、したがってキリスト教徒にとっては、ユダヤ人への憎悪を掻き立てられるようなテーマである。そういうテーマの映画を、反ユダヤ感情が、ヨーロッパ規模で問題になりつつある時期に公開した、といえなくもないのである。

デュヴィヴィエは、どんなつもりでこの映画を作ったのか。彼は、映画のテーマについては、一貫した考え方を持っていたとは言えず、観客の興味に訴えそうなテーマであれば、なんにでも飛びついた、というふうに批評されることもあるが、果してこの映画も、単純な商業主義の産物なのだろうか。

ナチスに対する姿勢と言う点では、デュヴィヴィエの同時代人であるルネ・クレールは首尾一貫していた。クレールは、ヒトラーによる独裁を早くから問題視し、1934年(つまり「ゴルゴダの丘」が公開された前年)には、ヒトラーを痛烈に批判した映画「最後の億万長者」を作っている。そんなクレールに比べるとデュヴィヴィエは、鋭い時代感覚を持っていたとは言えない。それにしても、この映画は、デュヴィヴィエにとって、多少不名誉な結果をもたらすのではないか。この映画を見ながら、ふとそんなふうに思った次第だ。

しかし、映画の作り方は非常に念が入っている。デュヴィヴィエはさすがに映画作りのマスターと言われただけに、スケールの大きさと表現のデリケートさとが絶妙なハーモニーを醸し出している。

劇中、福音書の中の節目となる出来事が、福音書の記録通りに時間を追って展開していく。それらの場面はいずれも、キリスト教徒である画家たちのイマジネーションを刺激し続けてきたものであり、多くの画家によって繰り返し繰り返し描かれてきたものだ。そのようなイメージは、ヨーロッパのキリスト教徒にとっては非常に親密なものなのであり、感動なしには見られないものだ。デュヴィヴィエはそのことを十分に承知していて、それらのテーマを描く時には、宗教画や教会彫刻で表現されたイメージをそのままに取り入れる形で使っている。たとえば、城門の上で民衆がキリストを弾劾する場面は、ヒエロニムス・ボスによる「この人を見よ」を連想させるし、キリストと二人の罪人の磔刑のシーンは、ルーカス・クラナッハによる「磔刑図」を連想させる。そのほか、どの場面にも、それに対応する芸術作品が存在することを指摘できるほどだ。

こうしたイメージの繋がりは、歴史の積み重ねとしてヨーロッパのキリスト教徒たちにビルトインされたものだ。日本人にとって、地獄の光景が平安時代末期の地獄絵のイメージと強く結びついているようなものだろう。そうしたイメージの結びつきに訴えることで、デュヴィヴィエはこの映画に情緒的な吸引力を持たせたのだと思われる。

イエス・キリストを演じたロベール・ル・ヴィガン(Robert Le Vigan)は、日本人にはほとんど馴染みがないが、戦前のフランス映画においては、人気俳優の一人であった。その彼は、映画の中では、救世主というより、迫害される一方の無力で哀れな男というふうに描かれている。一方、ピラトを演じたジャン・ギャバン(Jean Gabin)のほうは、多少役不足に見えた。ギャバンのように強烈な人間臭さが売り物の俳優にとっては、ピラトのような中途半端な人間像は、似合わないように見えた。

(なお、ル・ヴィガンは、ナチス占領中に対独協力をしていたかどで、解放後裁判にかけられ、10年間の懲役刑に処せられた。だから彼はフランス人にとっては、国を裏切った売国奴ということになる。その売国奴がキリストを演じていると言うので、この映画は、フランス人の間では、今でも評判が悪い)





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