壺齋散人の 映画探検
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ジュリアン・デュヴィヴィエ「パリの空の下セーヌは流れる」:パリ賛歌



ジュリアン・デュヴィヴィエ(Julien Duvivier)の戦後の代表作「パリの空の下セーヌは流れる(Sous le Ciel de Paris coule la Seine)」は、映画の中で流れるシャンソンの方が有名になってしまった。この映画の中では二曲のシャンソンが流れるのだが、そのうちの一つである「パリの空の下(Sous le Ciel de Paris)」が、エディット・ピアフやイヴ・モンタンによってカバーされるや、たちまち世界中でヒットした。いまでも、シャンソンの名曲として愛され続けている。かくいう筆者も好きな曲だ。とにかく、メロディがすばらしい。

この映画は、普通の映画からは大分逸脱している。まず、統一したストーリーというものがない。したがって全体の顔と言えるような主人公も存在しない。複数の人物たちの、それぞれの人生模様が、同時並行的に繰り広げられるという作り方になっている。だから、一種のオムニバス映画ともいえるが、オムニバス映画の場合には、いくつかの独立した部分から成り立っているのに対して、この映画の場合には、個々のストーリーが同時並行的に展開されるのである。しかして、その物語のいづれもが、パリの街を舞台に展開される。そんなことからこの映画は、映画のナレーターも言っているように、パリを主人公にした映画と言えなくもない。

映画が展開して見せるのは、パリにおけるある一日の出来事である。というより、パリのある一日における、複数の人々の生活の断片というべきものである。それらの断片が、最初のうちはてんでんばらばらに進行していくが、そのうちに、さまざまに縺れ合うようになり、ついには少数の終局点に向かって収斂していく。

出てくる人物をおおまかに紹介する。まず、精神病と思しき画家の男マチアス。この男が最初に出てくる場面で「パリの空の下」のメロディがピアノの音に乗って流れるのだ。ちょっとアンマッチなのは、この男は、このあとすぐにモデルの女性を殺してセーヌ川に放り込んだり、後で出てくるチャーミングな女性の喉を掻き切ったりすることだ。そんな殺人鬼の登場と合せて、あの軽快なメロディが流れ出す、そこがいかにもアンマッチだ。

ついで、工場でストをしている労働者たち。そのなかの一人にエルムノがいる。彼は、最後にはマチアスの犯罪に巻き込まれてひどい目にあうことになる。

大勢の猫を飼っているお婆さん。このお婆さんは、金がなくて猫にミルクを買ってやることができない。そこで、親切な人に助けを求めようと、パリの街を放浪するのだ。そのお婆さんの家の隣りに八百屋があって、そこにコレットという小さな娘がいる。この娘は、近所の男の子とともに、セーヌ川に冒険の旅に繰り出すことになる。

ドニーズという若い女性が、友人を頼ってパリに出てくる。彼女は、文通している相手の男にぜひ会いたいと思っている。できれば彼と結婚したいのだ。そこで自分の運勢がどうなるのか、カードで占ってもらう。その結果は、愛と富と幸運を手にするだろうというものだった。しかし、彼女はこの日の最後に、マチアスに喉を掻き切られて死んでしまうのだ。そんな彼女に、芸術家とナイフに気をつけろ、と言った男がいたが、実際その男の言った通りになってしまうわけである。

ドニーズの友人マリーは、モデルをして生活している。彼女には研修医のジョルジュという恋人がいる。ジョルジュは、腕のいい外科医なのだが、なぜかしら試験に弱く、いままで三回も医師の国家試験に落ちてきた。この日は四回目の試験を受けることになるが、やはり失敗してしまうのだ。だが、ジョルジュは、病院に運び込まれてきた患者を救うことに成功する。心臓の近くに銃弾を撃ち込まれたエルムノを、困難な手術の末助けてやるのだ。

こんな具合に、大勢の人々が出てきて、とりとめもなく雑然としているかに見えるが、見どころには欠かない。まず、エルムノを巡るエピソード。彼はしがない工場労働者だが、家族や隣人と強い絆で結ばれている。彼ら夫婦はこの日が銀婚式の記念日で、それにあわせて盛大な宴会を予定してしたのだが、ストが重なって思うようにならない。そこで、せめて工場の門の前で宴会の真似事をしようと、家族たちがやってくる。すると、工場の仲間が同情して、セーヌの河岸で一緒にやったらよいと言ってくれる。かくして、エルムノ一家とその仲間たちが、セーヌ川の河岸で宴会を広げ、あの「パリの空の下」を歌うわけである。そのエルムノは、ストが解決したのを喜びながら家に帰る途中、マリアスを追っていた警察官に誤って撃たれてしまうのだ。

八百屋の娘コレットと、近所の男の子ピラトの冒険も面白い。二人は海賊になった気分で船をセーヌ川に漕ぎだし、さまざまな冒険をする。そのうちつまらないことで喧嘩になり、コレットは見知らないところに置き去りにされてしまう。迷子になったコレットが紛れ込んだのは、ワインの樽が延々と重なるところだった。そこはワインの倉庫街のようで、石畳にはトロッコの線路が通っているところから、ベルシーだと思われる。筆者も、先日パリ旅行をした際にベルシーのホテルに泊まったことがあるから、その時の記憶を重ねながら、これはベルシーに違いないと、ピンときた次第だ。

コレットはここでマチアスと出あう。マチアスはコレットを家の近くまで送ってやる。おそらくセーヌ川の右岸沿いにベルシー通りを行き、オーステルリッツ橋のところで別れたのだろう。橋を渡るとすぐに植物園があり、その先がコレットの家があるムフタル通りだとマチアスがいっているから、間違いないと思う。

ドニーズは、文通相手と会うことができたが、その相手の男は廃人同様の姿だった。飛行機事故にあって大怪我をし、男としての能力も失ってしまったというのだ。すっかりがっかりしたドニーズは、自分を愛している別の男のことを考えようともするが、その日の夜に、マリーのためにひと働きしようとして町を歩いているところ、マチアスに襲われて殺されてしまうのだ。その彼女のハンドバッグには、4000万フランの当たり籤が入っていた。彼女はその宝くじを、占い師の勧めに従って買い求めていたのである。

こうして、一人の若い女性(ドニーズ)が死に、一人の中年の男(エルムノ)が生き返るところで映画は終わる。終わった時点から一日を振り返ると、始めは互いに無縁だった人々が、実は運命の赤い糸によって結びついていた、というように感じさせられるようにできている。デュヴィヴィエらしい技巧のなせるわざだ。



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