壺齋散人の 映画探検
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ジャン・ルノワールの映画「どん底」:マクシム・ゴーリキーの戯曲を映画化



ジャン・ルノワール(Jean Renoir)は、フランスではルネ・クレールと並ぶ偉大な映画監督として敬愛されているが、日本では印象派の有名な画家オーギュスト・ルノワールの息子として、また「大いなる幻影」の監督として知られてきた。「どん底(Les bas-fonds)」は、その「大いなる幻影」の直前に作った作品である。

「どん底」はロシア人作家マクシム・ゴーリキーの同名の戯曲を映画化したものだ。日本の黒沢明もこの戯曲を映画化しているが、黒沢が原作に忠実なのに対して、ルノワールは大胆に換骨堕胎して、原作からかなり離れた作品に仕上げている。

大きな違いは二つある。ひとつはコソ泥のペペル(ジャン・ギャバン Jean Gabin)と男爵(ルイ・ジューヴェ Louis Jouvet)のかかわりあいを映画の中心にすえて、映画全体を一種の友情物語にしていることだ。原作では、男爵は多くの登場人物の一人に過ぎず、またペペルと特別の友情で結ばれているわけでもないのだが、それをルノワールは大幅に書き換えたわけである。

もう一つはペペルとナターシャとの愛の成就を取り入れたことだ。原作では、ナターシャはペペルに対して両義的な感情を持っているが、最終的にはペペルを捨てて、かれを官憲に引き渡す。ペペルはそれによって刑務所に入れられてしまうのである。映画の中では、ペペルはやはり刑務所に入れられはするが、その彼をナターシャは見捨てずに待ち続け、最後には結ばれるということになっている。

このように、新しい筋書きを加える一方、原作では大きな位置を占めている巡礼のルカが相対的に軽い役柄になっている。原作では、ルカは途中から現れてどん底にいる住人たちを一人一人勇気づけ、未来への希望を掻き立てる役を演じ、途中で消えてしまうのだが、映画では最初から登場して最後までどん底に残る。そして他の者を勇気づけることがないわけでもないが、その行為が他の者の行為に比べて特別に光を放って見えるというわけでもない。要するに中途半端な扱いなのだ。

こうしてみると、ルノワールはゴーリキーの戯曲を題材にしながらも、ゴーリキーが描いた世界とは全く異なった世界を描き出そうとしたのだといえよう。ゴーリキーの描いた世界とは、彼が生きていた時代のロシアの惨めな世界そのものであって、そこに生きているロシアの民衆の現実の生活をかなり反映したものだったといってよい。ゴーリキーが描いた人々は、文字通り世の中のどん底で、這いつくばるようにして生きながら、なんとかそこから脱出し、人間らしい生活をしたいと考えている。だからこそ、巡礼ルカの出番もあるのである。原作のルカは虐げられた人々に人間的な尊厳を取り戻してやろうとする、それこそキリストのような存在として描かれている。

それに対してルノアールの描くどん底の世界は、たしかに悲惨な世界であり、貧困を象徴する世界かもしれないが、ゴーリキーのようにマイナス・イメージばかりが染みついた惨め一辺倒の世界でもない。それは、貧困にまとわりつかれていると同時に、自由に息をできる世界でもあるのだ。いわば通常の世界からはみ出した異常の世界、つまり反世界としての意味合いも帯びている。

だからこそ、男爵は日常世界において持っていたなにもかもを捨てて、このどん底の世界にやって来るばかりか、そこで人間らしく生きていけると感じることができるのだ。また、ペペルのほうも、このどん底の世界でナターシャという恋人と出会い、彼女と共に未来を切り開いていくことができると感じるのだ。原作のどん底には、こうした前向きな要素はほとんどない。登場人物たちは、救いのない毎日を生きるばかりで、未来への希望を持つことなどできないでいるのである。

それゆえこの映画は、基本的には、絶望を描いた映画というよりは、希望を描いた映画だといってよい。原作では、希望はどん底の外部にあって、どん底にあるのは絶望だけなのだが、この映画では、どん底にも希望の火はともっている、といっているところがある。

映画の前半は、ほとんどペペルと男爵の友情をめぐる物語になっている。男爵は、この世界の欺瞞性に愛想をつかし、その憂さを博打で晴らしている。ところが博打で巨額の負債を背負い込んで財産をすべて差し押さえられてしまう。そんな男爵の屋敷に泥棒に入ったペペルと、男爵とが意気投合し、それをきっかけに男爵はどん底の世界の住人に加わるのだが、それはどん底に"落ちた"というよりは、異界にスリップした、あるいはワープした、といった感じで描かれている。

また、ペペルが思いを寄せるナターシャは、原作ではワシリーサの実の妹ということになっているが、この映画では、孤児のナターシャをワシリーサが拾ったということになっている。さればこそワシリーサは、ナターシャを酷使し、ついには非人間的な暴力まで加えるのである。

そんなナターシャをペペルは愛し、ナターシャもまたそれに応える。二人は様々な試練を乗り越えて、幸せな生活を掴むに違いない、そんなメッセージを残して映画は終わるのだ。そのハッピーエンドのところが、原作やそれに忠実な黒沢の映画とは大きく異なるところだ。

この映画では、ジャン・ギャバンの演技ぶりもさることながら、ルイ・ジューヴェが光っている。独特の仕草がいかにも貴族らしさを思わせるし、どん底に迷い込んできてからは、自由な空気を胸いっぱいに吸って、これこそ人間の生き方なのだ、ということを、誰がみてもわかるように演じている。



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