壺齋散人の 映画探検
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肉体の悪魔(Le Diable au corps):クロード・オータン=ララ



クロード・オータン=ララ(Claude Autant-Lara)の映画「肉体の悪魔(Le Diable au corps)」の原作は、天才作家として夭折したレモン・ラディゲの処女作である。彼はこの小説を弱冠17歳の時に書いた。これがアルチュル・ランボー以来の天才少年の出現だというので、大いにもてはやされた。日本でも堀口大学の翻訳を通じて熱狂的に迎えられ、堀辰夫や三島由紀夫などに大きな影響を及ぼしたと言われる。それをオータン=ララが大戦後(1947年)に映画化したわけだが、この映画を通じて、戦後フランス映画界の星と言われたジェラール・フィリップ(Gérard Philipe)が俳優としての名声を確立した。

小説の内容は、15歳の少年が成熟した女性から誘惑され、性の喜びに目覚めていくというものだ。ストーリーが単純なところを繊細な心理描写が繕っているといった観がある。だから映画化にはなじまないのかもしれないが、オータン=ララは様々な趣向を凝らして見せる映画に仕立て上げた。

映画は第一次大戦の終了を祝う民衆の波を描写するところから始まる。そのお祭り騒ぎの中で、ひっそりとした葬儀が行われようとしている。その葬儀の様子を若い男が遠くから見守る。この若い男こそ、物語の主人公フランソワなのだ。映画はこのフランソワの現実の様子と、彼の回想を織り交ぜることで成り立っている。その回想とは、フランソワとその恋人マルトとの、出会いから不幸な結末までを、時間軸に沿って思い出すというものだ。

フランソワはリセの生徒である。そのリセに隣接して病院が立っている。リセも病院も同一の法人が運営しているらしく、生徒たちが病院の仕事を手伝ったりもする。その病院にマルト(ミシュリーヌ・プレール Micheline Presle)という女性が看護婦見習いとしてやってくる。これがフランソワとマルトの出会いだ。

マルトは、母親の計らいで軍人と結婚することになっている。しかし彼女にはその軍人が気に食わないようだ。そこでまだ少年のフランソワに興味を示し、彼を性的に誘惑する。最初は単なる遊びのつもりだったようだが、そのうちに恋心に火がついて、二人ともホットになっていく。しかしフランソワは未成年者だし、マルトのほうは母親から厳しく管理されている。というわけで、この恋心は一時の気迷いと言うことになって、二人はいったん別れる。そしてマルトのほうは婚約者の軍人と結婚するのである。

しかし、二人の恋の火はそれぞれ消えてしまったわけではなかった。関係が復活した二人は、マルトの夫が戦場にいって留守なのを幸いに、マルトのアパートで抱き合う。これはどう見ても禁断の行為だ。フランソワは未成年者だし、マルトは夫のいる身だ。当時のフランス民法では夫の権力が強大で、夫の目を盗んで浮気をした妻は刑法上でも姦通罪に問われた。だから二人のしていることは非常に不道徳な行為なのである。そしてその責任はマルトの方が重い。なにしろ彼女は未成年者相手にこんなことをしているわけだから。

こういうわけで、年上のマルトの方は常に良心の呵責のようなものに苦しんでいるのだが、性の喜びの方が大きいので、彼女はいつもずるずるとフランソワを抱いてしまうのだ。フランソワのほうは、未成年者という立場を忘れて、しかもマルトには夫がいることを無視して、マルトを独占しようとする。そのうちマルトにはフランソワの子どもが宿る。そのこともフランソワを夢中にさせる。

娘の異常な行為に気が付いた母親は、二人をなんとか引き離そうとする。そしてついに娘を説き伏せて、フランソワの前から消え去るようにさせる。それを知ったフランソワは逆上するのだが、いくら逆上しても事態が打開される見込みは立たない。

そのうち戦争が終ってマルトの夫が帰ってくることになる。ふたりはいよいよ切羽詰る。その詰った切羽の中でマルトは子どもを出産し、その産褥の床の中で死んでいくのである。

この簡単な筋書きからもわかるとおり、これは不道徳な男女の禁断の愛の物語である。それだけなら鼻持ちならない話で終わるところを、原作の小説は、繊細な心理描写で二人の心の動きを微に入り細に渡って描くことで、愛というものの奥深さを描き出している。一方映画の方では、小説のような心理描写はできないので、他の部分でカバーしなければならない。それはやはり、愛しあう恋人たちのうっとりとしている表情とか、繊細な物腰とか、抱き合う男女の喜びが爆発するところとかを、映像で表現することだろう。この映画はその表現に成功しているといってよい。

映画では、マルトの方はフランソワよりずっと年上というようになっているが、マルトを演じているミシュリーヌ・プレールが清楚な感じを与えるので、子どもをたぶらかす不道徳な女という印象は伝わってこない。かえって純粋な愛に燃える不幸な女というようなイメージを与えることに成功している。相役のジェラール・フィリップは、この映画に出た時にはすでに24歳になっていたが、それが映画の中では17歳の少年を自然に演じていた。原作のフランソワは15歳なのだが、映画の中では17歳にしたのだ。いくらジェラール・フィリップでも、15歳の少年を演じるのは不自然すぎるだろう。

そのフィリップ少年を抱きしめるミシュリーヌ・プレールが、あなたはまだ子供のくせに、ベッドの中では大人になるのね、と言うシーンがある。大人でなければ、子どもを作ることはできない道理だ。





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