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ルネ・クレマン「居酒屋」:エミール・ゾラの小説を映画化



ルネ・クレマン(René Clément)の映画「居酒屋(Gervaise)」は、エミール・ゾラの小説「居酒屋(L'assommoir)」を映画化したものである。原作はゾラの代表作の一つであり、フランス自然主義文学の台頭を飾る記念碑的な作品ということになっている。ゾラの自然主義文学というのは、人間の生きざまや社会の矛盾をありのままに描こうという問題意識に貫かれていたので、とかく暴露趣味的なところがあり、それが当時の読書層にとってスキャンダラスに映った側面もあった。この小説は新聞連載という形で始まったのだったが、読書界の拒絶反応が大きくて、連載を中止せざるを得なかったほどなのである。

映画は、そんなゾラの原作をほぼ忠実に再現している。一人の女を中心にして、第二帝政時代のフランスの庶民の暮らしぶりや、資本と労働者との対立などを、感傷を交えずに淡々と描いている。淡々としすぎていて、主人公のジェルメーズが直面している運命の厳しさが、人間的な感情をはねのけるような冷たさを感じさせる。実際この映画は、原作の小説以上にドライな雰囲気を醸し出している。観客はこの映画を見ても、心を洗われることはないだろう。むしろ暗澹たる気分にさせられて、こんなものは早く忘れてしまおう、というような気持になるのではないか。

映画が描いているのは、男運の悪い一人の女の半生である。この女は男運が悪いために損をしてばかりいるのだが、それは他人のせいばかりともいえない。女自身に自分を不幸にさせるようなところがあるのだ。この女は、自分の意思を明確に言うことができない、その結果いつも他人の言うことや物事の成り行きに任せて、主体性のない生き方をしている。だから、しょっちゅう石に蹴躓いて、転んでばかりいるようになるのだ。そんな冷たい、突き放したような視線から、この女の半生が描かれているのである。

ジェルヴェーズという名のその女(マリア・シェル Maria Schell)は、三人の男たちに運命を翻弄される。一人目はランティエという女たらしの男で、ジェルヴェーズはこの男の子を三人も生んだというのに、正式の結婚もせずに、逃げられてしまう。この男は、映画の後半で再びジェルヴェーズの前に現れ、またもや彼女を食い物にする。

二人目の男はクポーという名の、気が良いが意思の弱い男だ。クポーはジルヴェーズが子持ちであることを承知の上で結婚してくれ、ジェルヴェーズにナナという女の子までさずけるが、ふとしたことで大怪我をしたために、働くことができなくなり、それがきっかけとなって人が変ってしまう。毎日飲んだくれて暇つぶしをするばかりか、二人の前に現れたランティエを家に入れたりする。挙句の果ては、ジェルヴェーズが客から預かった品を質入れするようなこともする。そんなクポーにジェルヴェーズは絶望するが、かといって事態を打開しようという気力はない。クポーはやがて発狂し、それがもとでジェルヴェーズの人格も破壊されることとなる。

三人目の男はグジェと言う名の謎の男である。この男はジェルヴェーズに好意を抱いており、なにかと彼女を支えてくれる。ジェルヴェーズが念願のクリーニング店を始めるに当たり、資金を提供したのも彼だ。彼は、社会の矛盾に敏感で、労働者が虐げられていると感じ、労働運動に身を投じるようになる。自分の勤務している会社の労働者たちを組織してストライキを試みるが、それが違法だと告訴され、懲役刑に付せられたりする。そのグジェに、ジェルヴェーズも好意を抱いているが、それが恋なのか、それとも単なる好意なのか、自分でもわからないのだ。そのうちグジェは、ジェルヴェーズの長男とともに、新しい働き場所を求めて地方に旅立っていく。

この三人の男に、ヴィルジニーという性悪女が絡んできて、ジェルヴェーズをひどい目にあわせようとする。彼女はランティエと駆け落ちした女の姉なのだが、ランティエが妹と別れた後、ランティエを手引きしてジェルヴェーズに引きあわせる。彼女は、ジェルヴェーズに対して遺恨を抱いており、何とか復讐してやりたいとかねてから思っていたのである。その復讐劇に、ランティエも一枚加わるというわけである。

これらの人間たちとかかわりながら、ジェルヴェーズの不幸な半生が展開していく。その半生の中には幸福な瞬間がないわけでもなかったが、概ね意に染まない、つらいことの連続だった。その挙句、亭主のクポーが発狂し、自分の店をヴィルジニーに取られてしまったジェルヴェーズは、かつて男たちがたむろしていた居酒屋ラソモソワール(L'assommoir)に入りびたりになる。小説は、絶望したジェルヴェーズが孤独のうちに死んでいく所まで描いているが、映画では居酒屋の一角で思い出に耽るジェルヴェーズと、たくましく生きて行く娘のナナを映し出すところで終わる。

ところで、このナナを主人公にした小説がゾラのもう一つの代表作「ナナ」である。そのナナは男たちを手玉にとる悪女として描かれている。ナナが悪女になったのは、母親が男たちにもてあそばれた意趣返しだったと思えなくもない。

映画の見どころは、何といってもジェルヴェーズを演じたマリア・シェルの演技だろう。小柄で足の悪いジェルヴェーズを、彼女は心憎いまでの正直さで演じていた。映画史上、不幸な女としてはほかにフェリーニの「道」に出てくるジェルソミーナが上げられるが、そのジェルソミーナは智慧の足りない女として描かれていた。知恵が足りず、人がいいので、男の食い物になるのである。ジェルヴェーズは智慧が足りないわけではないが、自分の意思を押し通すことのできない弱い女である。その弱さに男がつけこみ、また強い女にひどい目にあわされる。そこのところが、見ている者をいらいらさせるとともに、また不思議な魅力も感じさせる。その魅力のほとんどはシェルの演技から発散されていると言ってよい。

なお、映画の中の救われるシーンの一つとして、ジェルヴェーズの誕生祝いのパーティの場面がある。そのパーティに、ランティエの気まぐれから乞食の爺さんが招かれるのだが、その爺さんが、皆の前で戦争を呪う演説をする。自分の息子は戦争にとられて死んでしまった、戦争さえなかったなら、自分の人生はもっとましだったはずだ、ところが戦争のために息子を失い、自分の人生はこのようにメチャクチャにされてしまった、というような内容である。

この演説のシーンが、果して原作の中にもあったかどうか、筆者は失念してしまった。原作の小説は、第二帝政下のフランスが舞台だから、その時代に戦争があったということは、歴史上はない。だから、原作にこれに相当する部分があったとは考えがたいのだ。もしも、その上で、クレマンがこのシーンを差し挟んだとしたならば、このシーンにはクレマンの戦争観がさりげなく差し込まれているということになる。その戦争観とは、あの「禁じられた遊び」の中で展開されていたものと同質のものだ。



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