壺齋散人の 映画探検
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双頭の鷲(L'aigle à deux têtes):ジャン・コクトー



「双頭の鷲(L'aigle à deux têtes)」は、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)がジャン・マレー(Jean Marais)の求めに応じて特別に書き下した戯曲を映画化したものである。第二次大戦後になってコクトーが映画作りに熱心になった背景に、ジャン・マレーの存在があったことはよく指摘されることである。マレーはコクトーの若き愛人であった。その愛人を主演俳優にした映画をコクトーは作る気になった、というわけである。その第一作は「美女と野獣」であった。この映画の中でコクトーは、マレーに醜い野獣の役を演じさせたのだったが、今度はマレーの美しさが生かされるような作品を作りたいと思うに至った。そんな背景があって、この映画はジャン・マレーという俳優の類まれな美しさを表現することに、コクトーの努力が傾注されていると言ってよい。作品そのものとしては、あまり面白いとはいえない。

筋書きが荒唐無稽である。もっともコクトーの芸術は、ある種荒唐無稽さが売り物なのだが、この映画の荒唐無稽さにはいささかの積極性もない。ただジャン・マレーという俳優の美しさを表現できれば、どんな筋書きやいかなる舞台展開でも取りいれられる、そんなコクトーの魂胆が。ストレートに伝わってくる、といってもよい。

映画の冒頭で、これは史実ではなく虚構であり、観客は現実と虚構とを混同無きようにとわざわざ断っているのだが、普通映画を見る人間は、映画を現実と取り間違えることはない。だから、こんな忠告はナンセンスなのだ。にもかかわらずこういうことを言うのは、コクトーがことさら筋書きを軽視しているためだろう。筋書きなどはどうでもよいのだ。どうもコクトーはそう開き直っている気配が感じられる。

映画は、さる王国の王妃(エドウィージュ・フイェール Edwige Feuillère)を中心に展開する。王妃は十年前にこの王国の国王と結婚したのだったが、国王はめでたい婚礼の日に出先の城で暗殺されてしまう。その後王妃は、国民の熱い支持を背景に王国を統治してきた。ところが、亡国王の母親たる王太后らの一派にはそれが気に食わない。なんとか機会を見つけて王妃を殺し、自分たちが実権を握りたいと考えている。そこで一人の男を刺客に立てて王妃を殺そうとする。その刺客スタニスラスに扮するのがジャン・マレーと言うわけなのである。スタニスラスは亡国王に瓜二つというほどよく似ている。だから王妃は気を許して近づけるだろう。その油断をついて王妃を殺そうという魂胆だ。

国王暗殺から十年後、王妃はその暗殺の記念日に、暗殺の現場となった城を舞台にして、亡国王を偲ぶ大舞踏会を催す。王妃自身はその会場には出現せず、別室に閉じこもって亡夫との思い出に耽っている。そこへスタニスラスが現れる。警察に追われているという設定だが、実は王太后一派のボスである警視総監に遣わされているのである。本来なら、王妃に近づき得た機会を生かして、スタニスラスはその場で王妃を殺すべきであったのだが、王妃の美しさに心がまどい、自分の使命を忘れてしまう。一方王妃の方も、スタニスラスが刺客であることを知りながら、彼が余りにも亡夫に似ているので、思わず心を動かされてしまう。こうして、奇妙な組み合わせの男女の、奇妙な関係が始まるというわけなのだ。

王妃は、スタニスラフを自分の側用人に任命して、常に自分の周囲にいるようにさせ、あたかも死んだ夫との甘い生活を楽しむかのような日々を送る。スタニスラスの方も、自分の任務を忘れて、ひたすら王妃との共同生活を楽しむ。しかし、その共同生活はいつまでも続かない。王妃は、自分がいつまでも国の統治者でいられることはありえないと思っているし、スタニスラスの方は、自分を派遣した警視総監一派に最終的には逆らえないと思っている。二人の甘い生活は、いつかは終わりを迎える運命にあるのだ。

その運命の日は、意外に早くやってくる。王妃は出先の城から宮殿に戻らなくてはならない。警視総監らはその途上で王妃を襲おうと考えている。そこでスタニスラスに対して、本来の任務を遂行しろとせまる。スタニスラスには、その命令に抵抗する力はない。かといって王妃を殺すようなまねはできない。結局自殺するよりほかの道は残されていない。そこでスタニスラスは、王妃がテーブルの上に置いてあった毒を飲んで自殺を図るのだ。

そこへ王妃が現れる。王妃に向かってスタニスラスは、王妃に対する思いのたけを告白する。そんなスタニスラスに向かって王妃は何故か冷たく接する。挙句の果てはスタニスラスを侮辱するようなことまで言う。迫りくる死を前に逆上したスタニスラスは王妃の背中に短剣を立てる。そこで王妃は初めて自分の本心を発露する。わたしもやはりお前を愛しておりました、侮辱したのは、そのことでお前を逆上させ、私を殺させるためです、と。この言葉を聞いてスタニスラスは心が休まるのを感じ、王妃のほうも肩の荷の下りるのを感じることができた。これで、二人揃って天国に行くことができる。つまり、愛が政治に勝ったのだ。映画はそんなメッセージをわざわざ声高に叫びながら終わるというわけなのである。

この簡単な筋書きからもわかるように、この一組の男女の愛は、女である王妃のほうが積極的で、男であるスタニスラスは消極的に描かれている。ここでは女と男とが、通常の男と女の関係を逆に生きている。女が主体的で、男は従属的なのだ。しかし、男女を問わず人間の美しさとは、従属的な役割のうちでこそ映える。ジャン・マレーの美しさを最大限に表現したいと考えたコクトーは、マレーに従属的な役割を演じさせることでそれを実現したのだと考えられる。なにしろジャン・マレーがエドウィージュ・フイェールの膝に顔をうずめる場面などは、男としてはカッコ悪い限りといえるが、そのカッコ悪さを美しさが補って余りあるというふうに、コクトーは運んでいるわけだ。

ところでタイトルに採用されている「双頭の鷲」という言葉は、二人の愛の象徴として使われている。双頭の鷲のように、わたしたちも同体だという意味である。





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