壺齋散人の 映画探検
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ルイス・ブニュエル「アンダルシアの犬」:シュル・リアリズム映画



ルイス・ブニュエルがサルヴァドーリ・ダリと共同で作った映画「アンダルシアの犬(Un Chien Andalou)」は、映画におけるシュル・レアリズム宣言だと言われている。この映画によってルイス・ブニュエルはシュル・レアリストの映画作家と認められ、ダリはシュル・レアリストの芸術家としてデビューした。もっとも、ダリはその後もシュル・レアリズムと密接な関係を持ち続けたが、ブニュエルのほうはかならずしもそうではなかった。この作品に続く「黄金時代」はまだシュル・レアリズムへの傾斜を感じさせるが、その後は次第にシュル・レアリズムから遠ざかり、戦後はガチガチのレアリズム作品を作るようにもなった。

シュル・レアリズムは、アンドレ・ブルトンやポール・エリュアールを中心に、詩の分野から始まり、せいぜい文学作品の領域に留まった運動であるから、映像の分野では、かならずしも明確なイメージがあったわけではない。ダリの映像作品は、シュル・レアリズムの傑作と言われたりもするが、同じくシュル・レアリズムを標榜したキリコなどと、どこがどんな関連にあるのか明らかとは言えない。まして映画の領域では、ブニュエルのほかにシュル・レアリズムの大家といえるような作家は現れず、したがって運動としてのシュル・レアリズム映画というようなものを認めがたいという事情がある。その辺は、他の領域の芸術と深いかかわりをもった「表現主義」の映画とは大きな違いがある。

ともあれ、この映画は実に不可思議な印象を与える。映画といえば、個々の映像の連続に意味を付与するものとして最低限のプロットがあるというのが常識だが、この映画には、いかなる意味においても、プロットと言えるようなものはない。ただ単に、個々の映像が脈絡もなく繫がっているだけだ。繫がっているというより、併置されていると言った方がよい。繋がりというと、なんらかの具体的な関連を想起させるが、この映画には、映像相互に何らの関連もないからだ。

映画は、剃刀を持った一人の男が、一人の女の背後に立ち、その女の目をその剃刀で切り裂くというショッキングな場面から始まる。この映画がシュル・レアリズムと認定されたのは、この場面の強烈な印象に由来するといってよいほど、これはショッキングな映像だった。なにしろ、人間の目玉が剃刀によって切り裂かれ、眼球がおどろおどろしく破壊されるのだ。どんな人間でも、こんな場面を見せられたら、嘔吐を催すほどにショッキングだ。

その後、わけのわからない場面を写した映像が脈絡もなく併置されてゆく。併置というと空間を思い起こさせるが、この映画の中の場面の併置は、時間における必然的な前後関係を何ら感じさせない点で、無時間的な空間上の併置を思い出させるというわけだ。

不思議なのは映像相互の無関連性だけではない。映画のタイトルと映画の中身との間にも何の関連もないのだ。タイトルは「アンダルシアの犬」になっているが、この映画には一匹の犬も出てこない。また「アンダルシア」についても、それを思わせるものがこの映画にあるとすれば、最後に出て来る海浜くらいでるが、この海浜も別にアンダルシアである必然性はない。コート・ダジュールでも不自然ではないわけだ。なにしろこれはフランス映画なのだから。

ブニュエルもダリもスペイン人である。その彼らがフランスで仕事を始めたのは別に不自然ではない。この時代のスペインとフランスとは相互に行き来があって、スペイン人の若い芸術家、たとえばピカソとかミロなども、フランスで仕事を始めている。だからブニュエルとダリがフランスで仕事を始めたのは、ごく自然なことだったわけだ、そんなこともあって、ルイス・ブニュエルは映画的な分類の世界では、フランスの映画作家に分類されることが多いのである。



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