壺齋散人の 映画探検
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昼顔(Belle de Jour):ルイス・ブニュエル



スペイン人であるルイス・ブニュエルは「小間使いの日記」でフランス人の愚かさを描いたが、「昼顔(Belle de Jour)」では、愚かさに加えフランス人の不道徳な生き方を描いた。ブニュエルの目にはフランス人はとことん不道徳に映ったようだ。といってもブニュエルは、なにも特別なことをことさらに描いたわけではない。フランス人にとってはごく日常的でありふれたことを描いたに過ぎない。それでも出来上がった作品は十分な不道徳さを感じさせる。フランス人は生きながらにしてそのまま不道徳な人間だからだ、そんなブニュエルの思いが、この映画からは伝わってくる。

フランス人の不道徳さは性的放縦という形をとることが多い。特に女性の場合にはそうだ。フランソア・ヴィヨンの昔からフランスの女性は性的放縦に耽ってきた歴史が指摘されるが、それはあり余る性的欲望から発したことだった。ところがこの映画に出てくる主人公の女は性的な不感症ということになっている。不感症の女が性的放縦に走るということ自体、道徳的な国民である日本人にはわかりづらいのであるが、フランスではそのようなことは別に不思議なことではないらしい。不感症の女こそ性的放縦に走りやすい傾向が強い。何故なら性的に不感症であることが、その補償行為としての性的放縦をもたらす、ということには十分な理由がある。そう思っているようである。

フランス女の性的放縦さは、それを淡々と描いただけでシュールな世界の現出につながる。フランス女は労せずしてシュールな世界を生きている、つまりこの世界から超越して、中空を舞い飛んでいるようなものだ。どうもブニュエルはそうも思っているらしい。その尻軽なフランス女を、カトリーヌ・ドヌーヴが心憎く演じている。この映画は彼女の肢体を見るだけでも十分な価値がある。

カトリーヌ・ドヌーヴ演じるセヴリーヌという女はプチ・ブル家庭の女主人だ。彼女は魅力的な肢体の持ち主なのだが、性的不感症のために夫を悲しませている。そこで自分の性感帯を開発するという目的で、娼婦を演じる決心をする。色々な男と肉体的に交わっているうちに、もしかして性感帯が開発され姓の喜びを感じられるようになるかもしれない。そうなれば自分自身は無論、夫にとってもよいことだ。こういうわけでセヴリーヌは、近代的な夫婦関係を維持する為の自己犠牲として、みずから娼婦の道に飛び込んでゆくのである。

こういう発想は、日本人のような過度に道徳的な国民には意外に映るかも知れぬが、フランス人にとってはそうではない。むしろ妻としての義務に答えようとする崇高な行為なのだ。

娼婦館の女衒から「昼顔(Belle de Jour)」という源氏名を付けられたセヴリーヌは、次々と客をとる。初めての客とはなんとか無事に性交が成立したようだ(快感は別にして)。これで自信をつけたセヴリーヌは、マゾヒストやサディストなどさまざまな性的趣向に応えてゆく一方、自分自身の性感帯の開発にも成功する。彼女がとった客のうちで、日本人と思わせる男が出てくる。相撲取りのようにがっしりしたその男は、ゲイシャ・ガール・カードで支払おうとするが、女衒から現金オンリーだと言われて現金を出す。その男の表情や振舞いは、我々日本人の眼にはとても同胞のものとは思えないので、やや侮辱された感じを抱かされる。ブニュエルはどうも日本人に対してよい印象をもっていないようだ。もっとも、セヴリーヌが一番感じたのはこの男だったと言っているから、日本人の男は性的に強健だとは思っているようだ。

セヴリーヌの毎日は、夢と現実とが交差する形で展開してゆく。現実の中では男たちとのセックスを重ねる一方、夢の中では嫉妬した夫に折檻されたりする。彼女は彼女なりに、軽度とはいえ、罪の意識を持っているようなのだ。その彼女にとって、危機的な状況が訪れる。それは二重の形でやってくる。ひとつはチンピラの若者に惚れてしまったらしいことだ。もう一つは、夫の友人に自分の売春現場を押さえられてしまったことだ。ここから映画は一気にクライマックスに向かって突き進んでゆく。

チンピラの若者は、彼女を独占する為には邪魔者の夫を排除しなければならぬと思い込み夫を射殺しようとする。そのチンピラは警官との銃撃戦の末射殺されてしまい、夫のほうは何とか生き返ったものの植物状態に陥る。その夫に向かって例の友人が妻の不倫を暴露する。さあ、どうなるのか、息を呑んで見守る観客にとって、予想外のどんでん返しが待っていた、というのがこの映画の基本プロットだ。

そのどんでん返しというのは、ここまで映画の中で展開されてきた事態全体が、セヴリーヌの妄想だったと告げられるというものだ。一体なんで、こんな手の込んだ細工を弄するのか、見終わった観客はいつまでも釈然とした気持になれないのだが、それはこの映画を作った自分のせいなのではなく、不道徳なフランス人の国民性に根ざしているのだ、そうブニュエルは開きなおっているようなのである。





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