壺齋散人の 映画探検
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好奇心(Le Souffle au Coeur):ルイ・マル



フランス人は世界でもっとも偽善的で不道徳な国民だとの見方がある。ルイス・ブニュエルは隣国のスペイン人としてフランス人をそう見ていたし、フランス人自身にもそんな見方をするものがいた。ヌーヴェル・ヴァーグ運動を主導したフランスの映画作家たちはその代表選手と言ってよい。ルイ・マルはヌーヴェル・ヴァーグの運動とは距離を置いていたにかかわらず、その主導者の一人に数えられることがあるが、それは彼のフランス人についてのシニカルな見方が、ヌーヴェル・ヴァーグの連中と似たところがあったからだ。

フランス人の偽善性とか不道徳な生き方とかは、一朝一夕で出来上がるものではない。それは長い少年時代に徐々に醸成され、思春期で爆発し、青年期に定着する。フランスの青年たちは、反体制的で情熱的だと思われがちだが、それはフランス社会の表層を見ているからにすぎない。たしかに1960年代末期のフランスの青年たちは、体制への異議申し立ての運動に熱中していたが、それは実に根の浅いもので、あっと言う間に下火になった。フランスの青年たちにとってはそうした異議申し立ての運動は一種のファッションのようなものであり、流行が過ぎればあっさりと忘れてしまうのだ。フランス人の青年たちの本質は、自己中心的で他者への思いやりに欠け、世界は自分のためだけにあるといった誇大妄想にふけるところにある。

ルイ・マルの映画「好奇心」は、そんなフランス人の多感な思春期を描いたものだ。フランス人は思春期の嵐のなかで、なかば公認された状態において、人間としてのあらゆる反道徳的な体験をくぐる。そうすることで大人になったときに、社会の矛盾や欺瞞性と言ったものに対する免疫を得るために、といった具合に。思春期にハメをはずせばはずすだけ、そのフランス人はフランス人として逞しく生きてゆくことができる。思春期を生ぬるく過ごしたものは、大人になっても中途半端で、従って社会に役立つ存在になれない。偽善的で冷酷でありうること、それが一人前のフランス人の条件なのだ。

この映画に出てくる少年は十四歳で、思春期のただなかにある。フランス中東部の都市ディジョンに住んでいて、父親は婦人科の医師、母親はファシストから逃げてフランスに亡命したイタリア人だ。少年には二人の兄がいて、彼らから悪の手ほどきを受けたりする。少年が始めてセックスの真似事をしたのも、この兄たちの取り計らいによるものだ。十四歳と言っても、この少年にはまだ幼いところがあって、裸になった姿は子供そのもの、陰毛さえ生えていない。そんな体で成熟した女から筆下ろしを手伝ってもらうのだ。

このほかにも少年は様々な悪事に手を染める。万引き、喫煙、飲酒は序の口で、マスターベーションから男根のますらお比べといったところだ。この中で最も罪深いのはマスターベーションであり、これをやりすぎると人間性が大きく損なわれると神父から脅かされたりする。一人でマスターベーションをするくらいなら、正々堂々と女とセックスするべきだ、というわけである。

少年は母親の浮気現場を見てしまう。そのことを通じて少年はフランス人の夫婦のあり方を自分なりに考えたりする。その結論は、夫婦といえども、お互いを束縛する権利はなく、夫も妻もそれぞれ独自に自分の快楽を追及する権利があるというものだ。だからといって、おおっぴらに浮気をしていいというわけではない。ばれない程度にすればよいのである。フランスではラブレーの時代から妻の浮気が深刻な社会問題になってきた歴史があるが、その問題性は現代でも依然解決していない、というメッセージが伝わってくる。

この映画の中のもっとも強烈な場面はマザー・ファッキングだ。少年は病気の転地療養先のホテルで母親と二人暮らしをすることになるが、治療そっちのけで遊んでいる。そんな折、浮気相手と別れて意気消沈している母親を慰めている間に、気持ちがすべって母親をファックしてしまうのだ。マザー・ファッキングというのはキリスト教が最も重大視する犯罪であり、これを犯した人間は地獄に落ちるほかはないとされている。そのきわめて重大なことをこの映画はあっさりと描き出す。いくら不道徳なフランス人でも、こんな場面を見せられたら仰天するに違いない。

ラストシーンでは、ホテルの部屋に父親と二人の兄が見舞いにやってくる。母親のほうは息子にファックされた夜から寝覚めたばかりで、息子の少年のほうは、別の部屋でしてガールフレンドと一夜を過ごし自分の部屋に戻ってきたところだ。そんな一家が顔を揃える。母親はまずいところを見られなかったことで安堵している。少年はいかにもそれと判る様子で朝帰りをして照れくさい顔をしている。なにも知らない父親と兄たちは少年を見て大笑いする。母親はまずいことがひとまず切り抜けられてほっとしている。家族のみんながそれぞれに笑っているのだが、その笑いには共通した対象がない。てんで勝手に笑っているだけだ。

この分裂した笑いの中にこそ、今日のフランス人の問題性が潜んでいる、といったようなメッセージを伝えようとしながら、映画は終わるのである。





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