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突然炎の如く(Jules et Jim):フランソワ・トリュフォー



フランソワ・トリュフォーの映画「突然炎の如く(Jules et Jim)」は、例によってフランス人が好きな性的放縦をテーマにした作品だ。原題にあるとおり、ジュールとジムという二人の若者の奇妙な友情を縦糸にして、それにカトリーヌという尻軽女とのセックスを横糸にして、人間の幸福とは何か、について追求したものである。無論フランス人にとって、人間の幸福とは性的な快楽以外の何ものでもないから、この映画の中で展開されるのは、性的快楽の諸相、とりわけ女の性的放縦である。

ジュールはドイツ人で、ジムはフランス人だ。この名前の組み合わせが非現実的だが、女の名前がドイツ人であるのにフランス風のカトリーヌになっているのは、もっと非現実的だ。だがそれは偶然ではないだろう。ドイツふうにヒルデとかグレートヘンとかにすると、どうしても性的放縦のイメージとは結びつかなくなる。ドイツ女は一応お堅いことで通っているからだ。それでトリュフォーはフランスふうにカトリーヌと名づけたのだろう。カトリーヌという名の女なら、性的な放縦と無理なく結びつくだろうと思って。

カトリーヌはジュールに誘われてはるばるドイツからパリにやってきたのだが、その彼女をジムが一目惚れしてしまう。カトリーヌもまんざらでもないようなことを言う。あなたはうぶで、わたしはお尻が軽いけど、いい夫婦になりそうね、と言うのだ。カトリーヌにとって、結婚は一人の男と排外的に結ばれることを意味しないのだ。それを裏付けるかのように、彼女はジュールと結ばれたあとも、様々な男とセックスしまくるのだ。

カトリーヌがジムを捨ててジュールを選んだのには、人種に根ざす違和感が働いていたと暗示される。フランス語とドイツ語では、名詞の性別が正反対だ。フランス語で太陽は男性形だが、ドイツ語では女性形だ。月はその反対で、そのほかドイツ語にはフランス語にはない中性形というものがある。これはものごとの受け止め方が、フランス人とドイツ人とで違っていることをあらわしており、その違いは性的なものごとにも根付いているだろう。だから私たちは、肌があわない。そんな趣旨のことをカトリーヌは言うのである。

フランスとドイツはその後大げさな戦争を始めて、国民性の違いを人々に思い知らせた。この両国は平和的に共存できない、というわけだ。だがジュールとジムの友情は、この戦争で損なわれることはなく、戦後ジムはオーストリアに住んでいるジュールとカトリーヌを訪ねる。そこで彼ら三人は奇妙な同棲を始める。カトリーヌは夫の目の前で堂々とジムを誘惑し、彼を自分の寝室に招き入れるのだ。そんな彼らを近所の住人は、三狂人と呼ぶ。フランス人ならそんなことは言わないだろう。ドイツ人だからこそ、彼らの行為が気狂いじみて見えるのだ。

カトリーヌはジムとセックスする一方で、ほかの男ともセックスしている。そんな彼女にジムが子供を作ろうと言ってせまると、いまはだめ、いまあなたとセックスして妊娠したら、誰の子だかわからなくなるから、と言うのだ。女というものは、普通は自分の腹に出来た子の父親がだれか、わかるように出来ているといわれるが、カトリーヌの場合には、その弁別が出来ないほどに、みだらな行為をしているというわけであろう。これは我々日本人には非常に不道徳に見える。ニホンザルでも、もっと道徳的な振舞いをするものだ。

しかし、そんなカトリーヌに対して、ジムもジュールも寛容だ。彼らは、東洋人を比較の材料に持ち出して、東洋人の男は妻を二人も持っているのだから、西洋の女が複数の男とセックスするのも大目にみる必要がある、というような趣旨のことを言って気を紛らわすのだが、我々東洋人としては、こんな比較の材料にされて、非常に迷惑というものだ。いまどき二人の妻をもった東洋人が、アジアのどこにいるというのだ。

映画の結末が、ジムとカトリーヌの心中死で終わっているのは、どういうわけであろう。さすがのトリュフォーも、性的放縦をあっけらかんと描くことに恥じらいのようなものを感じたのだろうか。彼らを死なせることで、自分は性的放縦の無条件の擁護者ではない、と主張しているつもりなのだろうか。

二人の遺体は火葬炉で焼かれ、その骨が細かく砕かれる。そのうえで、細長い容器に入れられて、棚の上に並べ置かれる。これはフランスでの出来事だから、フランスでも火葬がなされているということがわかる。実際、フランスでも、いろいろな事情で火葬を選ぶ人はいるのだそうだ。筆者はかつて、フランスの新聞社の日本特派員と、フランスの火葬について話す機会があったが、フランスでもごく一部に火葬を選ぶ人がいて、そういう人は、自分の骨を灰にして自然の中に撒き散らすのを望むのだそうだ。この映画の中では、灰をまくことは禁じられている、というメッセージが流れていた。

ジャンヌ・モローが妖艶な感じを出している。彼女は、年がわからないところがあるのだが、この映画に出たときには34歳になっていた。年相応に円熟さを感じさせる一方、コケットリーなところもあったりして、なんとも捉えどころのない女優だ。





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