壺齋散人の 映画探検
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気狂いピエロ(Pierrot Le Fou):ジャン・リュック・ゴダール



気狂いピエロ(Pierrot Le Fou)というのは、ジャン・ポール・ベルモンド演じる主人公フェルディナンのあだ名だ。このあだ名をつけたのは彼の古い恋人マリアンヌ(アンナ・カリーナ)。彼は友人のパーティで偶然この女と五年ぶりに再会し、二人で駆け落ちする。フェルディナンは妻子を捨て、マリアンヌは愛人のフランクを捨て。とりあえず目指したのは南仏だが、別にあてがあるわけではない。彼らはただ退屈しのぎができればよいのだ。この映画は、そんな男女の退屈しのぎの様子を描く。彼らは人生が小説のようであったらよいのに、と考えている。人生の意義とは退屈をしのぐことにあると思っているからだ。

こんな具合でこの映画は、とことん人生を舐めてかかっている。人生の意義は退屈しのぎにあるなどと思っているようなやからは、そもそも生きること自体に意味を感じていない。人を愛することもないし、自分を大事にすることもない。だから映画の最後で、男は女を殺してやましく思う様子がないし、自分自身をダイナマイトで爆死させてなんら後悔する様子がない。まあ、死んでしまっては後悔のしようもないわけだが。

ヌーヴェル・ヴァーグといわれる潮流の中で、ジャン・リュック・ゴダールは最も過激な映画作家だと言われたが、その過激さとは、世界とか社会とか人間とかいう言葉に、意味らしい意味を認めようとしないことにある。彼の作った映画ほど、無意味さに拘ったものはない。人生なんて所詮無意味なものなのさ、それに無理に意味を認めようとするものは、気が狂っているに違いない、と言うわけである。もっとも、この映画に出てくる主人公のピエロは気が違っているわけではない。だからこそ彼は、恋人のはずの女を殺したり、自分自身を殺したりできるのだ。気が狂っていては、こんなに論理的に明晰な行為はできるはずがない。

フェルディナンとマリアンヌは一銭も持たずに駆け落ちしたのだが、それは金に意味を認めていないからだろう。だからといって金無しには現実に生きていけないから、車を盗んだり金を盗んだりする。時には芸を披露して観客から小銭をせしめることもするが、それは例外で、必要なものは盗むというのが彼らのポリシーである。というか、必要なものは、それを本当に必要としているものの手に帰することが正義にかなっているというのが、彼らの哲学なのだ。彼らの頭の中は、よそ目には空っぽに見えるが、彼らは彼らなりに、自分の哲学に忠実なのである。

フェルデォナンは作家の端くれのようで、南仏を目指す旅の途中で、自分自身を反省しながら、思考の奇跡をメモにする。その思考は、偉大な作家の思考を追体験しようとの意欲に満ちている。たとえばアルチュール・ランボーだ。だがその意欲は空回りするだけで、何らの成果にもつながらない。そんな彼をマリアンヌは軽蔑するようになる。もともと彼らは昔の恋人だったという以外には、互いを結びつける絆のようなものに欠けているのだ。セックスをするわけでもないし、愛をささやきあうわけでもない。どちらかというと、罵り合っているばかりなのだ。

そんなわけで、別れたりひっつきあったりを繰り返しながら、二人とも(別々に)サヴォアに流れてくる。フェルディナンドが船から下りてサヴォアに立ったとき、ここはどこだと土地のものに聞くと、相手がサヴォアという。フェルディナンドはそれを、「サ・ヴァ(具合はどうだい)?」と聞き間違える。そう言われては「サ・ヴァ(いいよ)」と応えるほかはあるまい。この無意味なやりとりが、この映画をもっともよく特徴付けている。

サヴォアでマリアンヌを殺したフェルディナンは、自分の頭にダイナマイトを巻きつけて、それを爆発させる。彼がなぜ自爆する気になったのか、明確なメッセージは伝わってこない。ただ、彼を爆破したダイナマイトの煙が、地中海の青い海と空をバックにたゆたうばかりだ。その煙は、海の青さと空の青さを結び付けているように見える。そこへランボーのあの「永遠」の詩句が流される。なぜここでランボーなのか、それもよくはわからない。

巨大な団子鼻と分厚い唇の男(ベルモンド)がなぜ女にもてるのか、日本人の筆者にはよくわからない。ただマリアンヌを演じたアンナ・カリーナはなかなかチャーミングに見えた。





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