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ヒッチコック「ダイアルMを廻せ」:完全犯罪の目論見



「ダイアルMを廻せ(Dial M for Murder)」は、完全犯罪の目論見を描いた映画だ。目論見というのは、完全犯罪が思惑通りに完結しないで、犯罪が最後には暴露してしまうからだ。暴露してしまった犯罪は完全犯罪とはいえない。そこで目論見というわけである。

数ある犯罪映画のなかでも完全犯罪を扱った映画は、作る側にも見る側にもなかなかの緊張を強いる。作る側に緊張がないと、間抜けた映画になってしまうし、見る側に緊張がないと、サスペンスの醍醐味が伴わない。というわけで、完全犯罪を扱った映画は、なかなかハードなのである。

こうした基準に照らして、「ダイアルMを廻せ」は、完全犯罪映画として成功しているだろうか。完全犯罪映画には、基本的に二つのタイプがある。一つは完全犯罪が成功に終わるもの、もう一つは完全犯罪が失敗に終わるもの、である。成功に終わるタイプの映画は、犯人の知的な意味での素晴らしさを観客に納得させねば成り立たない、なんとなく成功してしまったり、偶然の事情が関与して暴露されずにすんだ、というのではサスペンス映画として失敗である。完全犯罪は、第三者、つまり観客の見ている前で、その綿密さが披露され、しかもその綿密な計画に従ってなにもかもがスムーズに運ばれねばならぬ。そうした映画には、完璧なスマートさが要求されるわけである。

失敗に終わるタイプの完全犯罪映画は、完全犯罪の意図が結局は貫徹されなかったとしても、それは計画がずさんだったのではなく、計画した人物の思惑を超えた不可抗力的な要因、それは人間の能力をこえた要素の介入であるから、神の意思と言い替えてもよいが、そうした要因に従って破綻したのであって、計画そのものは完璧だったというふうに観客に思わせねばならない。そうならないで、計画そのものにずさんさがあったために完全犯罪が成立しなかったと思わせたのでは、それはその計画に甘いところがあったからだと思われていたしかたない。そんな計画は完全犯罪の計画とはいえない。犯人が馬鹿だっただけだと思われるのが落ちである。

この第二の基準に照らして「ダイアルMを廻せ」を見ると、それが成功しているか、あるいは破綻しているか、判断が分かれるところかもしれない。この映画では、犯罪は結局露呈してしまうのだが、それは計画がずさんだったからだろうか。そこをどうみるかで評価が決まってくると思う。ずさんだったと考える人にとっては、これは失敗した映画ということになるし、計画そのものは完璧だったが、神の意思のような超人間的な要因によってその計画の実現が妨げられたというふうに観客に受け取ってもらえれば、この映画は成功しているといえる。

筆者の見立てでは、この映画のプロットにはかなり無理があるようだ。あらゆる犯罪には動機があるが、この映画にはその動機が弱いように思われる。犯罪者のレイ・ミランドが妻のグレース・ケリーを殺害しようと思い立った動機は、妻の浮気に立腹したためだと言うことになっているが、それにしてはミランドの表情には嫉妬の影はない。嫉妬にかられた犯罪は通常激情を感じさせるものだが、ミランドにはそうした激情は感じられない。それどころか彼は終始一貫して理性的に振る舞い、この計画も半年かかりで用意したという周到さだ。彼は激情からではなく、知的な趣味からこの計画を思いついたといった印象まで与える。

ミランドがこの犯罪の実行を、自分自身ではなく第三者の手を借りてしたことにもうかつさを感じる。完璧な犯罪とは、自分以外にそのことを知っている人物の存在を許さない。自分以外の人物が、自分の犯罪を知っているというのは、パーフェクトな完全犯罪とはいえないだろう。もっともこの映画では、自分の犯罪の共謀者は結果的には死んでしまうのだが。

こういうわけで、この映画で描かれた犯罪には、完全犯罪としては中途半端なところがある。だが、見ものとしては面白いと言えよう。その面白さは恐らく、観客が犯罪者の立場に立って、彼に感情移入できるところから来ている。犯罪者のレイ・ミランドは、自分では完璧だと思っていた犯罪計画が、いざ実施の段になってさまざまな意図せぬアクシデントに見舞われ、計画通りにいかないことに歯軋りをする。そこで、なんとか切り抜けようとして、次々と微調整をしたあげく、一旦は完全犯罪に成功したと安心する。その過程におけるレイ・ミランドの心の動きに、観客も一体化して事態の成り行きを見守る、という具合になっている。しかも、一旦は成立したと思い込んでいた自分の犯罪計画が、思いもよらぬ事情によって暴露され、また振り出しにもどってしまう。その時の犯人の残念な思いにまで観客が感情移入できるようになっている。そうした点では実に心憎い演出振りだと思える。

この映画は、先行する二作品「ロープ」と「見知らぬ乗客」を意識させる。「ロープ」は一場劇として、アパートの部屋の中での殺人をテーマにしたものだが、この映画でもやはりアパートの一室での殺人がテーマになっている。だが、「ロープ」の場合には全編が一つの場面からなっているのに対して、この映画では場面がいくつかに分かれるという違いはある。それでも殆どはアパートの部屋を舞台にして展開される。

「見知らぬ乗客」は、見知らぬ男から殺人を依頼されて困惑する人物を描いていたが、この映画ではレイ・ミランドが見知らぬも同然の第三の男に殺人を依頼するわけだ。「見知らぬ乗客」の主人公は、殺人の依頼を拒絶するが、この映画の中の第三の男はその依頼を受け入れる。なぜそんな依頼を簡単に受け入れたのか、それは映画を見ればなんとなく伝わってくるようになっている。ヒッチコックの描く世界には、基本的に、ありえないようなことはないのだ。



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