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ヒッチコック「知りすぎていた男」:暗黒組織の国家的陰謀



アルフレッド・ヒッチコックの1956年公開の映画「知りすぎていた男(The Man Who Knew Too Much)」は、暗黒組織の国家的な陰謀をテーマにしている点で、「三十九夜」とよく似ている。「三十九夜」は、陰謀に巻き込まれた男が、偶然知り合った女性とともに、少ない手がかりをもとに陰謀を解明し、自分の身の潔白を証明するところを描いていたが、「知りすぎた男」は、国家的な陰謀に巻き込まれたうえに息子をさらわれた夫婦が陰謀を暴いて息子を取り戻すところを描いている。

この映画は、なんといっても主題歌の「ケセラセラ」で有名だ。この映画を知らない人でも、「ケセラセラ」は聞いたことがあるのではないか。この歌は、映画のなかでは二回歌われる。一回目は、映画が始まって十二分たった頃に、ドリス・デイ演じる母親が息子に歌って聞かせる場面だ。二回目は百十分経過したクライマックスの場面で、某国大使館に息子が監禁されていることを突き止めた夫婦がそこへ乗り込み、母親が大声でこの歌を歌う。それを聞きつけた息子が暴れ出し、それがもとで息子の救出と暗黒組織の摘発が成就するというものだ。

「三十九夜」はどちらかというと犯罪者を追い求めることがテーマになっていたが、こちらは息子の救出にむけての夫婦の執念が前面に出ている。犯罪者を摘発することは、おまけみたいな扱いだ。

この映画のポイントは、息子をさらわれた夫婦が、警察を頼らずに、自分たちだけで取り戻そうとするところだ。息子は、一家の旅行先であるモロッコでさらわれるが、ジェームズ・スチュワート演じる父親は、モロッコ警察(実体はフランス警察)からの協力申し出を断る。さらに息子たちがロンドンに向かったと推量してロンドンに行った後、ロンドン警視庁からも協力を申し出されるが、これもやんわりと断る。父親は、警察を信用していないのだ。

父親が警察を信用していないのは、彼がアメリカ人だからだろう。アメリカ人は、自分の権利は自分で守るという考え方が身に染みてついている。犯罪の被害者になったときには、警察を頼るのではなく、自分の力で解決する。そういう姿勢が、この映画からはよく伝わってくる。警察の権威が圧倒的に高い日本のような国では、考えられないことだ。

両親のそうした姿勢が報われるかのように、息子は彼ら自身の力で取り戻す。警察も多少はかかわりあうが、決定的なところでは何もしていない。夫婦が智恵を絞りあい、役割を分担して息子を救い出すのである。

「三十九夜」の犯罪組織は国際的な陰謀組織ということになっていて、イギリス政府から秘密情報を盗み出そうとしていたが、この映画の中の犯罪組織は、某国の政治団体ということになっていて、その連中がイギリス出張中の首相を暗殺しようとしていることになっている。要するに一国内の権力闘争である。その権力闘争に、ジェームズ・スチュワートとドリス・デイの夫婦が巻き込まれるというわけである。

夫婦が犯罪組織を追及するところは、素人らしくあまりスマートなところがない。彼らは試行錯誤を繰り返した挙句に、やっと犯罪組織の中枢、つまり息子が監禁されている場所に近づくのだが、それも半分以上は偶然のもたらしたことというふうになっている。彼らが息子を救出できたのは、ほとんどはこの偶然の賜物なので、彼ら自身の主体的な行動が決定的な要素となっているわけではない。しかしこうした偶然を招きよせたのは、彼らの熱心さの賜物だったということは伝わってくる。

クライマックスの場面で、ドリス・デイが大声を上げてケセラセラを歌うと、それを聞きつけた息子が暴れ出す。その音を頼りに父親は息子の居場所を知ることが出来る。このあたりが、クライマックスらしく見せる場面になっている。よく考えれば荒唐無稽なところの多い話なのだが、それを感じさせないのは、ヒッチコックの腕が冴えているからだろう。

(この映画は、「三十九夜」に先立って作った「暗殺者の家」のリメイクなのだそうだが、そちらは筆者は未見なので、ここでは触れなかった。)



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