壺齋散人の 映画探検
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ミケランジェロ・アントニーニ「太陽はひとりぼっち」:アラン・ドロンの魅力



ミケランジェロ・アントニオーニ (Michelangelo Antonioni)が1960年に作った映画「情事」は、同年のフェリーニの映画「甘い生活」とともに、映画の常識を覆す画期的な作品ともてはやされたものだ。明確なストーリーをもたず、あまり関連のない場面が継起するうちに、なんとなく作品の雰囲気が伝わって来る、そんな映画の組み立て方が、従来の映画の作り方とは根本的に異なると受け取られたのである。

この「情事」と、それに続く「夜」及び「太陽はひとりぼっち」を併せて、「愛の不毛三部作」と呼ばれる。どれもみな、現代社会において、男女の愛は成り立つのか、という深刻な疑問をテーマにしている。

この三部作の中では、「太陽がひとりぼっち(L'eclisse)」が一番完成度が高いといわれ、また興行的にも成功した。というのも、この映画には、当時人気絶頂だったアラン・ドロン(Alain Delon)が出ていたからだ。アラン・ドロンはフランス人の俳優だが、イタリアの監督の映画に出て、イタリア人青年を自然に演じた。この映画は、そのドロンの人気をいっそう盛り上げることに一役果たした。

だが、この映画の本当の主人公は、ドロンではなく、モニカ・ヴィッティ(Monica Vitti)である。モニカ・ヴィッティ演じる若い女の視点を通じて、男女の愛の可能性について、というより男女の愛とは何かという、答えのない疑問が展開されるのである。

映画は、モニカ・ヴィッティ演じるヴィットリアという若い女性が、フィアンセとの婚約を解消するところから始まる。何故二人がそういう不幸な結末に至ったかについては何も語られない。破局を宣言したのは女の方だが、何故そんなことをしたのか、自分でもわからないのだ。まして、フィアンセの方は全く訳が分からず、別れを受け入れることがなかなかできない。だが、どんな不幸な目にあっても、時間がそれを癒してくれる。というわけで、一人の男と別れた一人の女は、時間の流れに身を任せながら、あてもなく生きているうちに、次の男とのアヴァンチュールに移行する。その新しい男を演じるのがアラン・ドロンというわけだ。

アラン・ドロンは、ローマの証券取引所のディーラーということになっている。要するに相場を張る山師だ。山師と言えばいかがわしい雰囲気を思い起こさせるが、この映画の中のアラン・ドロンはそのいかがわしさとセックス・アピールを共存させた、典型的な女たらしとして描かれている。この男は、金儲けに夢中で、女と愛を育むなどと言うことは時間の無駄だと思っている。だから、あちらの欲望が高まると、商売女を買うことで発散させている。ところが、ヴィットリアを見ているうちに、なぜだか判らぬが彼女が欲しくなってしまう。そこから、一人の男と一人の女の新たなアヴァンチュールが始まるわけだ。

最初のアヴァンチュールから次のアヴァンチュールに移行する合間に、ヴィットリオの身には色々なことが起こる。親しい女友達と遊びながらケニアの黒人女性に扮してボディ・ダンスを踊ったり、セスナでローマの上空を旋回したり、証券取引所で株価の大暴落を目撃したりといった具合だ。それらのエピソードの間には何の関連もない。孤立した出来事が意味もなく継起するだけだ。その辺は、フェリーニのアンチ映画に共通するものがある。

ドロンとヴィットリアは、もともと知り合いの仲だった。ヴィットリアの母親がドロンの株取引の客だったのだ。彼女は金に欲ボケしたような女で、株価の暴落で大損し、生きる望みを失ってしまう。そんな母親を尻目に、ドロンはヴィットリアにモーションをかける。モーションをかけられたヴィットリアの方は、ドロンをまんざらでもなく思う一方、彼の欲望に応えるのを躊躇する。どうもこの女性は、性的に成熟していないようなのだ。男に身体を触られるのをいやがるのが、その証拠だ。

ヴィットリアのカマトトぶりにしびれを切らしたドロンが、君のことをもっと知りたいという。一体どういうつもりでカマトトを演じているのか、その訳が知りたい、ということであろう。それに対してヴィットリアは、そんな必要はないと答える。「愛し合うのに互いに知る必要はないわ」というのだ。愛とは肉体の事柄であり、精神の事柄ではない、と彼女は思っているのだろう。

しかし彼女が徹底した唯物論者かと言えば、どうもそうではないようだ。彼女は次第にドロンを、心でも受け入れるようになって来るのを感じるのだ。つまり彼女は、女とは精神的に男を愛することもある、ということに少しづつ気付きだしているようなのだ。

しかし、この愛もまた成就する見込みはなさそうだ。二人は、今後も愛し続けることを誓い合い、とりあえず次のデートの約束をするのだが、二人ともその場に赴くことをしなかったのだ。映画は、二人が姿をあらわすべき場面に、二人があらわれず、風景とそれを乗せた時間とが淡々と流れ去るのを映しながら、曖昧なままに終わってしまうのだ。愛はやはり成就されることはなかった、というメッセージを残しながら。

なお、この映画は仏伊合同作品ということになっていて、仏語イタリア語両方のバージョンがある。筆者が見たのはフランス語のバージョンだったが、当然ながらアラン・ドロンもモニカ・ヴィッティもフランス語をしゃべっている。一方、イタリア語バージョンでは当然二人ともイタリア語をしゃべっているはずだが、この言語と映像の組み合わせがどういう形で処理されているのか、興味深いところだ。当初はすべてイタリア語で撮影した後で、フランス語版ではそれをフランス語に吹き替えたのだろうか。それにしては、アラン・ドロンのフランス語は吹き替えではなく肉声のように聞こえる。もしかしたら、原フィルムではドロンはフランス語でしゃべりモニカ・ヴィッティはイタリア語でしゃべっていたのかもしれない。



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