壺齋散人の 映画探検
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ミケランジェロ・アントニオーニ「欲望」:馬鹿馬鹿しいかぎりの世界



ミケランジェロ・アントニオーニの1967年の映画「欲望(Blow Up)」は、いわゆる愛の不毛三部作に続いて作られた。愛の不毛三部作でアントニオーニが描いたのは、男女の不条理な関係についてだったが、この「欲望」からは、およそ人間が生きていることの不条理のようなものを描きたい、というアントニオーニの意思が伝わってくる。意思が伝わってくる、というのは、かならずしもそれが理解可能ということを意味しないということだ。

この映画は、あるカメラマンの生き方をテーマにしているのだが、そのカメラマンが自分のカメラマンとしての生き方にどんな意義を認めているかあまりよく伝わってこない。また彼がモデルとの間でくり広げる馬鹿騒ぎのようなものにも、どんな意味があるのか、よくわからない。というよりこの映画には、およそ観客、つまり人間の理解をこばむようなところがある。

というのも、主人公のカメラマン自身が、自分のしていることの意味がわかっていないからだろう。彼はカメラマンであるから、いっぱしの芸術家を自任しているし、自分の芸術家としての生き方に矜持を感じてもいる。だからといって、カメラマンとしての生き方に全力を投じているかといえば、そうではない。

彼は公園で抱擁していた男女を偶然盗み撮りして、それをカメラ雑誌に売ろうと考えるが、無断で自分の肖像を撮影された女から返還を迫られる。無論彼には返すつもりはない。そこで女が色仕掛けで彼を口説こうとするが、彼はその口説きに応じるふりをして女の肉体をつまみ食いしたりする。いまなら肖像を無断で撮影されたものは、無条件でそれを破棄するよう求める権利があるようだが、この映画が作られた頃には、まだそうした権利が確立されていなかったようだ。

それはともかく、このカメラマンは、フィルムの現像作業をしているうちに、写真のなかに死体が写っていることに気づく。そこで彼の関心は、自分の撮影した写真の芸術的な意味から、その殺人事件らしいものへと移ってゆく。カメラマンの視点から、探偵の視点にスイッチするわけだ。

だからといって、その殺人事件を解決しようなどという考えは彼には浮かばない。殺人という異常事態に興奮して、死体のまわりをうろつきまわるだけだ。だいたい、シチュエーションからして、この事件が被写体の男女と深い関わりがあり、そのためにこそ女がフィルムの取り戻しにこだわったとも思われるのだが、カメラマンにはそんな考えは全く浮かばない。ただただ死体の周りをうろつくばかりなのだ。

こう言ってしまうと、なにやら馬鹿馬鹿しく思えてくるが、じっさいこの映画が描いているのは、馬鹿馬鹿しいかぎりの世界の一面なのだ。

愛の不毛三部作で、男女の関係の不条理さにこだわったアントニオーニが、この作品では、人間の生き方のおおかたは馬鹿馬鹿しいかぎりの無意味さで満ちている、ということを主張したかったのかもしれない。だいたい自分の妻らしい女がほかの男とセックスしている現場を見せられても、腹一つ立てないような男に、生きている意味がわかるだろうか。そんなアントニオーニの疑問が聞こえてくるような映画である。



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