壺齋散人の 映画探検
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砂丘(Zabriskie Point):ミケランジェロ・アントニオーニ



ミケランジェロ・アントニオーニの1970年の映画「砂丘(Zabriskie Point)」は、ハリウッドで作られた。主な舞台はカリフォルニアの砂漠であり、テーマは1960年代のアメリカ文化に対する複雑な反応であるといえる。というのもこの映画には、当時のアメリカ社会への意義申し立て、それは一言でいえば反体制とヒッピー文化といってもよいが、それを描きながらも、別段それに同情的であるわけでもなく、そういうアンチ文化を体現している主人公たちは、亡びるべき存在として描かれているからだ。

この映画には、太い筋が通っていない。それは全盛期のアントニオーニに多かれ少なかれみられる傾向なのだが、この映画の場合にはそれが極端にあらわれている。映画の中核部分は、男女が砂漠の真ん中でセックスにふけるシーンに充てられている。それも一組の男女ではなく、おびただしい数の男女が、砂漠の中で砂にまみれながらセックスにふける。そのセックスに忘我の境地に陥った男女の表情を映し出すことに、この映画の大部分のエネルギーが費やされているわけである。

その砂漠というのは、ロサンゼルスの北東にあるモハーヴェ砂漠で、主人公の男女はそこで偶然出会い、たちまち意気投合するや、さっそくセックスにふけるのである。アントニオーニはもともと男女の関係にこだわった作家だが、その関係は精神的なものが中心で、セックスは脇役にすぎない場合が多かった。ところがこの映画では、男女関係は所詮性的な結びつきだといわんばかりに、彼らはセックスにふけるのである。

彼らのうち男のほうは、ロザンゼルスの大学で学生運動をしており、その運動の最中に警察官を射殺したために、セスナを奪って逃亡飛行をする。一方女のほうは、さるデヴェロッパーの秘書兼愛人のような立場で、その愛人に呼び出されてデスヴァレーの山荘に向かう。その二人が偶然、砂漠の真ん中で出会い、結合するのである。

男女がそんなにも簡単にセックスするようになるのは、村上春樹の小説では珍しいことではないが、1960年代のアメリカでは、そんなにありふれたことではなかった。ヒッピーたちのフリーセックスという文化現象は一部に見られたが、それは例外で、男女は、少なくとも互いを十分に理解しあってからセックスするものだと受け取られていた。ところがこの映画の中の男女は、セックスすることこそが、互いの理解にとっての手っ取り早い道筋だといわんばかりに、出会うや否やさっそくセックスに及ぶ。それも砂漠の真ん中で砂にまみれながらのセックスだから、砂に焼かれて気持ちいいどころではないはずだ。どうも彼らにとっては、セックスは快楽の問題ではなく、コミュニケーションの問題らしいのだ。

こういうコミュニケーション・スタイルはそれまでなかったことだから、いくらヒッピー文化が注目されていたとはいえ、封切り当時の観客の大部分は度肝を抜かれたと思う。

セックスが終わると二人は別れる。男のほうは盗んだセスナに乗ってロサンゼルスの飛行場に戻るが、そこで待ち構えていた大勢の警官に、よってたかって銃弾をぶち込まれ、ハチの巣になって即死する。これがまたすさまじい。男は抵抗のそぶりも見せないのに、警官のほうは問答無用とばかり一斉に拳銃を発射するのだ。こういうのを見せられると、アメリカの警察のすさまじい一面を感じさせられないではおれない。

一方女のほうは、デヴェロッパーのいる山荘に行く。そこでビジネス中のデヴェロッパーからセックスの予約を申し込まれるが、彼女は彼とセックスするよりは、彼を山荘ごと爆破してしまうのだ。

というわけでこの映画は、セックスを通じて結ばれたばかりの男女の、以外にもあっけない最期を描いて終わる。そこには、同情とか批判とか、あるいは感情的な反応とかいったものは一切ない。人間が男女の間でセックスするのも、他人に殺されたり、他人を殺したりするのも、動物の排泄となんら異なる次元のことではない、よくある普通のことだ、といったようなクールな構えが伝わってくる映画である。




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