壺齋散人の 映画探検
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靴磨き(Sciuscià):ヴィトリオ・デ・シーカ



ヴィトリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)は、ロベルト・ロッセリーニと並んで、イタリア・ネオ・レアリズモの旗手といわれた映画監督である。ネオ・レアリズモは、敗戦で荒廃した第二次大戦後のイタリア社会を描き、鋭い批判意識が売り物だった。「靴磨き(Sciuscià)」は、そんな傾向の中でも、社会批判の視線が特に鋭い作品である。この映画は、戦後のイタリア社会に大量に出現した戦災孤児たちが、福祉の対象ではなく、治安維持の対象として、非人間的に取り扱われていることを、正面から描き出している。

映画は二人の少年を巡って展開していく。年長のパスクヮーレは思春期前の少年で、両親を戦争で失った戦災孤児だ。年少のジュゼッペは十歳前後で、両親はいるが貧しくて子供の面倒を見るどころか、子どもの稼ぎをあてにするようなざまである。この二人の少年が、靴磨きで日銭を稼ぎながら、路上生活をしている。彼らの夢は、競馬馬を手に入れることだ。大分金がたまったが、馬を買うにはまだいくらか足りない。そこで彼らは、荒稼ぎのアルバイトに首をつっこむ。そのアルバイトとは、盗品を売りつけるというものだった。

金を稼いで馬を手に入れたまではよかったが、盗品売買の嫌疑で取り押さえられて、少年たちはろくな取り調べもないままに少年刑務所にぶち込まれる。その刑務所には、夥しい数の少年たちが収容されている。彼らはみな、この二人の少年のように、窃盗などの罪で捕まったのだろう。一応は、罪を犯した刑罰として少年刑務所に送られてきたということにはなっているが、どうも、ホームレスに対する治安維持の目的で、あげられた少年が多いようなのだ。

こうして二人の少年の刑務所暮らしが始まる。この映画の大部分は、少年刑務所というところがどのようなところなのか、それを観客に紹介することに費やされているのだ。仲の良かった二人の少年は、別々の房に入れられる。お互い、コミュニケーションが満足にとれないところから、つまらぬ誤解などが生じて、次第に二人の仲がおかしくなっていく。一方、二人はそれぞれ自分の入れられた房の相棒たちと新しい人間関係を作っていく。人間は与えられた環境に適応しないでは生きてはいけないのだ、とでもいうように。

二人の少年はやがて裁判にかけられる。裁判のシーンが出て来るが、審理はおざなりで、弁護士もまともに少年たちを弁護しようとはしない。裁判官の慈悲にお任せしますというのみだ。

結局二人の少年に有罪判決が下される。犯罪には罰を以て応えるのが正義だ、といわんばかりに。パスクヮーレには二年半の禁固、ジュゼッペには一年間の禁固刑が科せられる。二人はこれまでどおり少年刑務所にもどされ、それぞれの刑期を刑務所の中で過ごすことになるだろう。

ジュゼッペの房の仲間たちが脱獄を計画する。ジュゼッペも当然それに加わる。刑務所内の広間で慰安会が開かれ、全員の注意がそれに集中している間に、ジュゼッペたちは脱獄に成功する。それを聞いたパスクヮーレは、刑務所の職員に向かって、ジュゼッペがどこに行ったか教えるという。彼には、ジュゼッペが自分を置き去りにして脱走し、二人で手に入れた競馬馬を一人占めすることが許せなかったのだ。

競馬馬を預かってもらっている厩舎にいくと、果してジュゼッペたちがいることがわかった。パスクヮーレは刑務所職員の眼を盗んでジュゼッペに近づき、ジュゼッペを懲らしめてやろうとしてもみあいになる。その際中にジュゼッペは橋から転落して河原に落ち、石に頭を強く打って意識を失ってしまう。仲のよかったジュゼッペがぐったりと動かなくなったのを見ると、パスクヮーレは、自分のしたことの罪深さを改めて感じ、烈しく慟哭するのだ。

こんな具合に、この映画は、ただでさえ不幸な運命に絡め取られた少年たちが、更に不幸な運命へと押し流されていく様を冷徹な目で描いている。

冒頭に少年たちが路上で靴磨きをしているシーンが出てくる。客はアメリカの軍人たちだ。日本でも、戦後の大都市には同じような光景が見られた。しかし、日本の場合には、靴磨きなどの職にありつけるのはごく一部で、ほとんどの少年たちはなにもしないでブラブラしては、なかには犯罪にかかわるような者もあらわれたという。イタリアのパスクヮーレたちも、金欲しさからそうした犯罪にかかわるようになり、それがもとで少年刑務所に入れられてしまうわけだ。

少年刑務所における少年たちの処遇は、とても人間を相手にしたものではないという具合に描かれている。飯はゴミのようだし、房のなかにはシラミが跋扈している。病気になってもろくな治療も受けられない。パスクヮーレの同房の少年には結核を患っているものもいるが、刑務所側ではこの少年を放置し、結局は衰弱死するにまかせるといった有様だ。

刑務所の職員の中には、人間的な感情を持った者もいる。そうした職員は、少年たちの処遇改善を上司に申し入れるが、上司はそれをうるさい言いがかりとして受け取り、相手にしようとしない。そこで、そうした職員は、こんな所にいられないと思うようになり、去っていくのだ。この刑務所には、私のようなものではなく、もっと強い人たちが相応しいのです、という言葉を残しながら。

ところで、戦後の日本社会に沢山いた戦災孤児と言われる人たちは、その後どうなってしまったのか。この映画を見ると、そんな余計なことまで考えさせられてしまう。





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