壺齋散人の 映画探検
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ひまわり(I Girasoli):ヴィットリオ・デ・シーカ



「ひまわり(I Girasoli)」は、戦争の意味を問い続けたヴィットリオ・デ・シーカ(Vittorio De Sica)にとって、最後の反戦映画となった。この映画が作られたのは1970年のことだ。戦争が終って四半世紀経っていたわけだが、何故この時点で、再び反戦映画を作る気になったのか。

映画のテーマは、戦争によって引き裂かれた男女の悲劇だ。結婚したばかりの夫がロシア戦線に送り出される。やがて戦争が終り兵士たちは復員して来るが、夫は戻ってこない。しかし夫が生きているはずだと確信している妻は、あらゆる手がかりを求めて夫の所在を突き止めようとする。その執念は彼女をロシアまで行かせる。そしてついに彼女は夫の所在を突き止める。しかしそれは彼女にとって残酷な事態をもたらすものだった。夫はロシア女性と結婚し、子供まで設けていたのだ。

戦争で引き裂かれた男女の物語というのは、よくある話で、戦争の理不尽さを訴えるには最も効果的だ。デ・シーカもそれを計算して、この映画を作ったのだろう。その計算はある程度あたって、この映画はそれなりにヒットした。しかし、今からこの映画を見ると、腑に落ちないところがいくつかある。

まず、ひとつは、夫が何故ロシア人女性と結婚したのか、ということがいまひとつ伝わってこない。この男は、愛する妻をイタリアに残してきて、彼女のことを忘れることはなかったというふうに描かれているわけだから、何故簡単に彼女を捨ててロシア人女性と結婚したのか、そこのところが腑に落ちない。

それに、この夫はイタリア人兵士として、ソ連と戦うためにロシアに送られてきたわけだ。それが何故、ロシア人女性と簡単に結婚してしまうのか。そこのところがわからない。この男は、言ってみれば、ロシア人の敵であり、ロシア人にとっては悪魔のような存在のはずなのだ。

イタリアは、周知のようにナチスドイツの同盟国だ。そのナチスドイツとソ連との戦いは、第二次世界大戦中最も凄惨を極めた戦いになった。この戦いで、ソ連側は1000万人を超える死者を出している。だからロシア人にとっては、ナイスドイツは民族の敵なのであり、ナチスドイツの同盟国であったイタリアも同じように受け取られていたはずだ。つまり、映画の主人公であるイタリア人の夫は、ロシア人にとっては憎い敵であったはずだ。それが、簡単にロシア人に受け入れられ、ロシア人女性と結婚したという風に描かれている。余りに不自然ではないか。

この映画は、イタリア人夫婦が戦争の被害者であったいうような視点からのみ描かれ、イタリア人がロシア人に対して加害者であったという視点は皆無である。もしそういう視点が働いていたなら、侵略者であるイタリア兵がロシア人女性と簡単に結ばれるというような設定はありえなかっただろう。

イタリアの庶民はおしなべて戦争の被害者だったとする視点は、この映画に限らず、デ・シーカに一貫して見られるものだ。「靴磨き」と「自転車泥棒」は、戦争によって生活を破壊された被害者を描くというようなものになっているし、「ウンベルトD」も基本的には同じようなものである。その辺は、戦争によって生活の基盤を壊された戦後の日本人たちを描いた日本映画と共通するところがある。日本の監督たちは、例えば中国人との戦争などは描かずに、ただひたすら日本の庶民が戦争のためにひどい目にあったということを強調している分だけ、被害者意識がより旺盛だとはいえるが。

映画の中に出てくる男女とは、ソフィア・ローレン(Sophia Loren)演じるナポリ女ジョヴァンナとマルチェロ・マストロヤンニ(Marcello Mastroianni)演じるアントニオだ。アントニオは兵役が決定しているが、結婚すれば入隊に猶予が与えられるという制度を利用して、結婚届を出して束の間の新婚生活を楽しむ。その挙句、アントニオが発狂したという狂言を演じて兵役を逃れようとするが、役人に見破られ、意趣返しにロシア戦線に送られることになる。ロシア戦線は、最も凄惨な戦場として、イタリア人に恐れられていた所なのだ。

戦争が終って兵士たちが復員してくるが、その中にアントニオの姿がない。彼の生存を信じて疑わないジョヴァンナは、手を尽くして夫の行方を追う。そのうちに、戦場で夫と一緒だったという人物と出会う。その人物から、夫の最後の消息を聞いたジョヴァンナは、単身ロシアに乗り込んで夫の所在を追求する。

まず、夫の最後の消息と関わりのある土地を訪ねる。そこは、戦友の話では果てしなき雪原ということになっていたが、彼女が来てみると、一面のひまわり畑なのであった。彼女はその土地を中心にして、夫の消息を求めて方々歩き回る。そしてついに、夫の所在を突き止める。だが、その先には悲しい現実が待っていた。

結局、二人はもう昔には戻れない。夫には新たな妻と子がある。その暖かそうな家庭を壊してまで夫を奪い返そうとはジョヴァンナは考えない。彼女は潔く身を引くのだ。

夫の方は、何故こんなことになってしまったか、それを彼女に説明して謝罪したいと考える。そのために、金をはたいて、ロシアからイタリアまでやってくる。そんな夫の熱意にほだされて、彼女の方も夫と会うことまではするものの、もう一度やりなおしたいという夫の申し出は拒絶する。夫との復縁が不可能と知った彼女は、自分自身の生活を築きつつあったのだ。

映画は、ロシアに向けて旅立っていく夫を、ミラノ駅で見送るジョヴァンナの悲しみに満ちた顔をクローズアップするところで終る。このラストシーンにおける悲しげな表情と言い、絶望の涙と言い、はてまた映画の前半部において見せる愛の喜びに満ちた表情と言い、ソフィア・ローレンと言う女優は、実に表情豊かな人だ。

ともあれこの映画は、メロドラマとしても一流だと言える。観客は、掛け値なしに、涙を絞ることができる。





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