壺齋散人の 映画探検
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道(La strada):フェデリコ・フェリーニ



フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の「道(La strada)」は、世界の映画史上最も悲しい映画といえよう。とにかく、文句なしに泣かせてくれる。この映画を見て、もしも泣かない人がいたとしたら、その人は、人間の心を持った生き物とは言われないだろう。それほどこの映画は、悲しい映画なのだ。

何故この映画はそれほど悲しいのか。何故それ程、人をして涙を催さしめるのか。観客の一人たる筆者には、それをうまく言い表せないのが悲しいが、おそらく、生きることの切なさだと思う。この映画は、人間という生き物に、生きることの切なさを感じさせる、その切ない感じが、悲しいという感じと直につながるのだと思う。

無論、生きることには切なさだけが付きまとうわけではない。生きることには喜びもある。しかし、その生きる喜びも、生きることの切なさと裏表になってこそ、初めて噛みしめることのできるものだ。

この映画には、生きることの喜びの部分は殆ど描かれていない。この映画に出てくる人間たちにとっては、生きることは切ないばかりなのだ。辛いとか、苦しいとかではない、切ないのだ。その切なさが、我々観客にも伝って来るからこそ、それを見る者は誰もが涙を流してしまうのだ。

映画の主人公は、粗暴な旅回りの芸人ザンパノ(アンソニー・クイン Anthony Quinn)と、多少知恵が足りないが溢れるような優しさを持った女ジェルソミーナ(ジュリエッタ・マシーナ Giulietta Masina)である。ザンパノは、ジェルソミーナの姉を自分の仕事のパートナーにしていたが、その姉のローザが死んだので、妹のジェルソミーナを後釜にする。ジェルソミーナはわずか一万リラで、ザンパノに買われるのだ。

二人は、三輪自動車に寝起きしながら地方をどさまわりする。ザンパノが演技をし、ジェルソミーナがそれをサポートする。ザンパノにとって、ジェルソミーナは商売の相棒であるとともに、欲望のはけ口でもある。そんなザンパノの粗暴な仕打ちにジェルソミーナは腹を立て、何度か逃げようとするが、そのたびに連れ戻される。暴力を振るわれながら。

ジェルソミーナが最も不満なのは、ザンパノが自分を一人の女として認めてくれないことだった。自分以外の女とも平気で寝る。それがとても許せないのだ。もしもザンパノが自分を一人の女として認めてくれたら、ジェルソミーナはどんな苦労も苦労とは思わないだろう。その女心をザンパノはわかろうとしない。というよりか、そういう態度を表に出せないのだ。ザンパノがジェルソミーナを深く愛していることは、映画の進行につれてだんだんと判ってくる。

二人はイタリアの津々浦々を、芸を披露しながら、放浪の旅を続ける。その旅の途中、二人はサーカスの一座と出会い、そこに一時身を寄せる。そのサーカスには、イル・マットというあだ名の芸人がいた。イル・マットとはキチガイという意味のイタリア語だ。このイル・マットとザンパノが仇敵同士のように仲が悪いのだが、ジェルソミーナの方はイル・マットに好意を寄せる。そんなジェルソミーナに、イル・マットの方も恋心を寄せる。

このサーカス一座とジェルソミーナらの出会いの場面が、この映画の一つの見どころになっている。とある町で、おそらく復活祭らしいものが催されている。十字架の像を先頭にして、人々が祝祭的なパレードを行う。その祝祭的な雰囲気が、いかにも素晴らしいのだ。この祝祭の一環としてサーカス一座も芸を披露する。イル・マットは空中にさし渡した綱の上で、アクロバットの芸を披露し、それを見たジェルソミーナはすっかり感心してしまう。

ザンパノとイル・マットが、ちょっとしたことで大ゲンカになる。表向きの理由は、イル・マットがザンパノをからかったということだったが、本当は、イル・マットとジェルソミーナが仲の良いことにザンパノが嫉妬したのだ。その結果ザンパノは豚箱に放り込まれる。残されたジェルソミーナに、サーカスの連中は自分たちと一緒に行こうと誘う。また、イル・マットはジェルソミーナに愛を打ち明け、自分と一緒に行ってくれと願う。しかし、ジェルソミーナは残ることを選んだ。彼女には、ザンパノと暮らすこと以外に考えられなかったのだ。

ジェルソミーナは、イル・マットから餞別の言葉をもらう。イル・マットは、河原の小石を取り上げながら、どんなものにも存在する意味があるのだ、と言ったのだ。その言葉を聞いたジェルソミーナは、自分のような者にも、存在の意味があるのだと思えるようになったのだった。

豚箱から出て来たザンパノに、ジェルソミーナは、少しはわたしが好き? と尋ねる。そしてザンパノに小石を見せながら、どんなものにも少しの意味はあるのよ、という。しかし、ザンパノには、そんなことは全くのナンセンスに映る。

二人にとって転機がやってくる。放浪の途中たまたまイル・マットと出会ったザンパノは、言い争いの末にイル・マットを殴り殺してしまうのだ。そのことが、ジェルソミーナの心に深い傷を負わせる。ジェルソミーナは、この現実を受け入れられずに、気が狂ってしまうのだ。愛する男であるザンパノが、自分の心の支えであったイル・マットを殺してしまったわけだから、彼女にはとてもそれを受け入れることはできなかったのである。

気が狂ったジェルソミーナは、いまやザンパノにとって足手まとい以外の何ものでもなくなった。そこでザンパノは、雪の中にジェルソミーナを置いたまま立ち去ってしまう。彼女と一緒では、自分も生きて行くことができないからだ。せめて彼女の母親のもとに返してやりたいが、気が狂った彼女にはどんな言葉も通じない。

数年後、ザンパノは海岸沿のとある町にやってくる。すると、その町で誰かがある曲を歌っているのが聞えてくる。その曲はジェルソミーナがイル・マットから教わってよく歌っていたものだ。もしかしたらジェルソミーナかもしれない。まだ生きていて、この町で暮らしているのかもしれない。ザンパノは恐らくそう思ったのだろう。声の聞こえる方向へ近づいていく。すると、歌っていたのは見知らぬ女性だった。ザンパノは、その女性から、図らずもジェルソミーナの消息を聞くことになる。彼女は、ザンパノと別れたあと、この町にたどり着いて、そこで乞食のような暮らしをしながら、よくこの曲をトランペットで吹いていたが、ある日冷たくなって死んでいたというのだ。

この話を聞かされたザンパノは、心が烈しく揺れるのを感じる。芸にも全く身が入らない。そして、夜中に一人海岸にやって来ると、ジェルソミーナの名を呼びながら、烈しく嗚咽するのだ。

ザンパノは、結局ジェルソミーナに惚れていたのだ。惚れていながら捨てたのは、そうしなければ自分も生きていけなかったからだ。しかし、そのことが今更ながらザンパノの心を揺さぶる。それは、生きていることの切なさからくる、如何ともしがたい情動のようなものだ。

ザンパノを演じたアンソニー・クインがすさまじい迫力を感じさせる。名前からして英語圏の出身らしく見えるが、実際にはメキシコ人である。そのメキシコ人が何故イタリア映画に出て、流暢なイタリア語をしゃべっているのか、事情はよくわからないが、とにかく非常にユニークな俳優だ。





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