壺齋散人の 映画探検
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甘い生活(La dolce vita):フェデリコ・フェリーニ



フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の1960年の映画「甘い生活(La dolce vita)」は、同年に公開されたミケランジェロ・アントニオーニの作品「情事」とともに、映画作りの常識を破るものだとして評判になった。わかりやすい筋立てがないこと、したがってクライマックスのないままに、漫然として終わってしまうことだ。これを評して評論家たちの中には「反ドラマ」と呼ぶ者もいた。

映画としての出来栄えは、この「甘い生活」の方が上だとの評価が高い。この映画は、ドラマ性は希薄だが、当時の社会生活の一面を鋭く捉えており、したがって写実性や批判性にも富んでいる。映画として、それなりのまとまりをもっているといえる。映像処理も見事だ。

この映画は、一人のジャーナリストを主人公にして、彼の周囲に展開される世界、主に上流階級の世界を、冷めた目で描いたものだ。それも主人公の視点に立ってではない、あくまでも第三者の視点からだ。その視点から見れば、主人公も大勢のプレイヤーの中の一人に過ぎない。

その主人公マルチェロ(マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni)が、ヘリコプターに巨大なキリスト像を吊るしてローマの上空を飛びまわる所から映画は始まる。ある建物の上から、女たちがヘリコプターに向かって挨拶をする。両手を高く上げた女の両脇には、腋毛が生えているのが見える。この時代には、こんな風に腋毛を生やしている女もいたという証拠だ。しかし、この女たちもキリストを吊るしたヘリコプターも、映画の進行とは何の関係もない。彼らはそのまま消えてしまうのだ。マルチェロ一人を残して。

この後、映画は、マルチェロの周囲に転回する様々な出来事を追っていく。その出来事は、大雑把に区分すれば七つに分けられる。マルチェロと大金持ちの女とが或る娼婦の部屋でセックスをすること、マルチェロがアメリカの大女優を誘惑して夜のローマを徘徊すること、マルチェロが教会でスタイナーと言う不思議な男と会ったあと聖母マリアの奇跡を取材すること、マルチェロが田舎から出てきた父親に夜のローマを堪能してもらうこと、マルチェロがある公爵の豪勢な館を訪ねること、マルチェロが愛人のエンマと喧嘩別れした後スタイナーの自殺現場に立ち会うこと、マルチェロが他人の邸に仲間たちを招待してドンチャン騒ぎをすること、だいたいこんな話の連続である。話相互の間には、基本的には連絡はない。みなそれぞれ独立した話だ。中にはスタイナーや大金持ちのマッダレーナのように複数回出てくる人物もいるが、彼らがその場その場で出てこなければならぬという必然性のようなものはない。彼らでなくても、別に不都合はないのだ。

こんな訳でこの映画は、変わり種のオムニバス映画と言えなくもない。オムニバス映画が、登場人物も物語もそれぞれ独立しているのに対して、この映画の場合には、マルチェロという一人の人物を材料にして、互いに独立した話を繋ぎ合せているわけである。そして最後のシーンで、どんちゃん騒ぎの終わった後、登場人物たちがひとりづつ踊りながら消えて行く。その消え方が一風変わっている。観客に背中を見せ、尻を振りながら、それでもって別れの挨拶に代えているのだ。尻を振ることが別れを惜しむ表現だというかのように。最後にマルチェロも邸から消える。外へ出ると目の前は海で、折から地元の漁師が漁をしている。彼らが引き上げた網の中には巨大なマンタがいて、それがうるんだ目でマルチェロたちを見つめている。その眼が何を訴えたいのかは、誰にもわからない。

見どころはいくつもある。大金持ちの女(アヌーク・エメ Anouk Aimée)と遊んでいたマルチェロが娼婦を遊びに誘うが、それは娼婦と寝るためではなく、娼婦のベッドで大金持ちの女とセックスするためだ。この大金持ちの女は好色と見えて、どんな男とも、どこででも、セックスしたがるのである。アヌーク・エメはほぼ同時期の映画「モンパルナスの灯」のなかで、娘らしさを感じさせる役を演じていたが、ここでは大胆な女を演じている。同一の女優とは思えないほどだ。

マルチェロはジャーナリストということになっているが、彼の仲間のカメラマンたちは、有名人の姿を見ると群がって行って、どこにでも付きまとう。その友人の一人にパパラッツォという者がある。この男の名が、いまにいうパパラッツィの語源になったということだ。パパラッツィといえば、イギリスのダイアナ妃を事故死に追いやったことで一躍脚光を浴びたところだが、彼らの執拗さはダイアナ妃をも混乱させるほどのものだということが、この映画から伝わってくる。

パパラッツォたちがもっとも熱狂したのが、アメリカの大女優シルヴィア(アニタ・エクバーグ Anita Ekberg)だ。この女優は、ボディは豊満だが、頭が少し足りないということになっていて、そこをマルチェロが付け入って遊びに連れ出す。夜のトレビの泉に彼女が入り込んでいくシーンは、この映画の大きな見どころのひとつだ。

聖母マリアの奇跡の場面は、「カビリアの夜」の同じようなテーマの場面を思い出させる。ここでも、人々は聖母マリアの奇跡を一目見ようと、蝋燭をかざして集まってくる。会場のあちこちの地面には、担架に乗せられた病人たちが横たわっている。彼らは聖母の奇跡によって癒されることを望んでいるのだ。しかし、その願いは、当たり前のことながらかなえられない。却って雨に打たれて命を落とす者がいるくらいだ。この辺の、民衆の信仰心を冷徹に描き出すところは、フェラーリのひとつの性分といえるところだろう。





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