壺齋散人の 映画探検
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8 1/2:フェデリコ・フェリーニ



「81/2」という奇妙な題名は、映画の内容をあらわしているわけではない。これはフェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)が作った映画の順番をあらわす数字なのだ。この映画は彼が、8 1/2番目に作った映画と言うわけなのである。1/2という半端な数字が含まれているのは、共同制作のものも含まれているからだ。

しかし、この題名は、奇しくもこの映画をよく語っているともいえる。というのもこの映画には、意味のあるどんな言葉もしっくりこないだろうからだ。まともな筋もなければ、明確なメッセージもない。映画の中の言葉を使えば、「高い知的水準と明快な論理」を欠いた、「混乱の極み」のような中身なのだ。

筋書きとはいえないまでも、話の流れのようなものはある。ある有能な映画監督が、温泉地での療養を兼ねながら、次回の作品の構想を練っている。彼は非常に有名な映画監督らしく。大金持ちのプロデユーサーや有能な脚本家、そして大勢の出演志願者たちが群がり集まって来て、映画の撮影が開始されるのを待っている。しかしどういうわけか、この映画監督にはインスピレーションのようなものが湧いてこない。湧いてくるのは、少年時代の回想やら現実離れした幻想やら、要するに実体のない妄想ばかりである。

グイド(マルチェロ・マストロヤンニ Marcello Mastroianni)という名のこの映画監督には、少年時代に異端の嫌疑をかけられた記憶があった。グイド少年は仲間たちと共に、海岸の近くの小屋に住みついている醜い老女に、小銭をやって踊りをさせて楽しんだのだったが、実はその老女は悪魔だったのだった。そこで悪魔と心を通わせあったというので、少年はカトリック教会からひどい仕打ちを受けた。そのことがトラウマとなって、成人したグイドはカトリック教会に複雑な気持ちを抱くことになったのだった。

彼はまた、妻に対しても複雑な気持ちを抱いている。心がしっくりと溶けあわないばかりか、肉体もしっくりと交わらないのだ。妻(アヌーク・エメ Anouk Aimée)はそんな夫に不満を抱いている。夫から誘われてせっかく温泉地にやって来たのに、夫は自分のことを抱こうとしない。不満をぶつけると、夫は「疲れているんだ」と弁解する。そのくせ別の女には鼻の下を短くするのだ。

グイドの周囲には、映画の役を求めて大勢の女たちがやってくる。その中にはグイドが性的魅力を感じる女もいる。グイドが最も気に入ったのは、クラウディア(クラウディア・カルディナーレ Claudia Cardinale)という女だ。この女は、映画の中で二度ほど出てくるのだが、彼女に対するグイドのぞっこんぶりが、鼻の下から伝わって来る。

しかしだいたいの女はただのでくの坊として描かれている。そのでくの坊の女たちに囲まれたグイドは、あたかもハーレムを率いるスルタンのようなのだ。

カトリックに対して引っ掛かりを感じていた彼は、ついにカトリックの枢機卿と会うチャンスを持つ。しかし、その出会いは何らの実を結ぶこともなく終わる。彼は、出来たら枢機卿と共に温泉に浸かりたかったのだったが、枢機卿には専用の浴室が用意されていて、そこには彼以外に立ち入ることはできないのだった。こんなわけでグイドは、カトリックとの和解を果せないでいる。

だが、妻との間では、何とか和解が出来そうな気がしてきた。なぜそうなったのかはよくわからない。妻の方で、かたくなな態度を和らげ、それに対して夫が答えるそぶりを見せたのがきっかけかもしれない。

映画の制作が一向に進まないことに業を煮やしたプロデューサーが、グイドに圧力をかける。映画のための巨大なセットを作ったり、採用予定の俳優たちのスクリーンテストを行ったり、外堀を埋めるようにしてグイドに制作開始を促すのだ。かくして、グイドの方でまだ期が熟さないままに、映画のクランクインの儀式が始まる。その場でグイドは発言を求められる。しかしグイドの頭の中は空っぽで、発言するに値するどんな言葉も詰まっていない。

そこでグイドは照れ隠しのつもりでテーブルの下に潜り込むと、自分の頭にピストルの弾丸をぶち込む・・・というのは幻想で、実はグイドは生きたままだ。しかし映画製作者としては、死んだも同然なのだ。そんなグイドを、プロデューサーたちもあきらめる。そして、映画作りが失敗すると、プロデューサーは金を失うだけだが、映画監督は名声を失うと言って、グイドを慰める。グイドを慰めてくれたのはプロデューサーだけではない、これまでにグイドの前に現れたすべての人々が、グイドを許し、慰めてくれるのだ。

映画の最後のシーンは、そんな彼らがお揃いの白い衣装を着て踊りまわる場面だ。グイドも妻の手をとって、その踊りの輪に加わる。「人生は祭だ、共に生きよう」という、あの有名なせりふを吐きながら。

こんなわけで、この映画は、とらえどころがないと言えばとらえどころがないが、突っかかりのようなものが無いわけではない。その突っかかりと言うのは、人生に対するある一つの姿勢だろう。その姿勢がどんなものであれ、そこに人間の生き方が読み取れるならば、それでもって善しとしよう、そんなメッセージがこの映画からは伝わって来る。





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