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サテリコン(Satyricon):フェデリコ・フェリーニ



フェデリコ・フェリーニ(Federico Fellini)の映画「サテリコン(Satyricon)」は、紀元1世紀のローマの作家ペトロニウスの怪奇譚「サテュリコン」を映画化したものである。「サテュリコン」とは、サテュロスのように好色で無頼な者と言う意味だが、その字義どおり、好色で無頼な人間たちが繰り広げる荒唐無稽で残忍かつ奔放な物語の数々である。このような物語が生まれたのにはそれなりの訳がある。ペトロニウスがこの作品の中で描いたのは、あの残虐な皇帝ネロの時代のローマ帝国であり、そこでは快楽と悪徳が支配していた。だから、その世の中を描くことは、勢い、サテュロスが闊歩・跳梁するような倒錯した世界を描くことに通じたわけである。それをフェリーニはわざわざ20世紀に映画化してみせた。というわけは、20世紀もまたネロの時代に劣らず倒錯した世の中だと、フェリーニは訴えたかったのだろうか。

原作では、エンコルピウス(映画ではエンコルピオ)、アスキュルトス(同アシルト)、ギトン(同ジトーネ)の三人組が、旅先で繰り広げるさまざまな冒険を、エンコルピウスの視点から描くという形になっている。映画もそれを踏襲し、エンコルピオの視点を通じて、ネロ時代のローマ帝国の腐敗と情欲の渦巻く混沌とした世界を描いていくわけである。

映画は、エンコルピオ(マーティン・ポター Martin Potter)とアシルトの仲たがいと別離から始まり、巨大なアパートが地震で崩れていく様を映した後、突然怪しげな宴会へと移る。宴会を主催しているのはトリマルチオーネ(原作ではトリマルキオ)という解放奴隷上がりの大金持ちだ。この宴会の部分は、現存する原作のテクストでは「トリマルキオの狂宴」と題され、完璧に保存されている部分だ。原作の中では、豪奢で頽廃的な宴会の場面が生々しく描写されているが、映画は映像の力を利用してそれを視覚的に拡大して再現している。

この宴会の場には、食欲の外に性欲や暴力も充満している。人間の腕を斧で切断し、その男の苦痛にゆがんだ表情を楽しんで見たり、燃え盛る炎に人を投げ込んだりと、凶悪な暴力の場面が展開される一方、懶惰な性欲の場面も展開される。トリマルチオーネは少年相手の男色が好みらしく、彼の周りには美しい少年たちが侍っている。宴会にはエウモルポという詩人も侍っているが、彼は自分の才能を恃む余り、主人のトリマルチオーネの機嫌を取りそこない、あやうく燃え盛る炎の中に放り込まれそうになったりする。

この後ちょっとした小話を挟んで、エンコルピオ、アシルト、ジトーネの三人は何者かによって捕虜にされ、奴隷船に放り込まれる。彼らを捕虜にしたのは、リーカという海賊だった。リーカは奴隷を土産物代わりにして、皇帝の機嫌をとるつもりでいたのだが、エンコルピオに一目惚れしてしまい、彼を自分の男妾にする。妾にされたエンコルピオは、少年の服を着せられ、それをアシルトらに嘲笑される。

だが、リーカはすぐに殺されてしまう。皇帝が交代し、新しい皇帝に仕える軍が海賊退治にやって来たのだ。リーカの首は胴体から切り離され、海の藻屑となって浮かんだあと、場面は突然切り替わる。

旧皇帝側の地方領主が新皇帝側の軍に責められているところへ、エンコルピオとアシルトがやって来る。領主は妻と共に自殺したばかりだ。邸のどこからか女の声が聞こえてくる。逃げそこなった女黒人奴隷の声なのであった。エンコルピオとアシルトはこの女奴隷を相手にして、しばし性的な快楽に耽る。

領主の舘を脱出した二人は、男に飢えた女に困惑している人々の所へやって来る。早速女の相手をさせられた二人は、この女の狂気を治すようにとのミッションを授けられる。最近現れたという神の子の霊力によって、この女の狂気を治そうというのだ。そこで二人は、女の亭主ともども神の子を盗みに行く。しかし、途中で神の子に死なれてしまう。怒った亭主が二人を殺そうとする。

エンコルピオはなんとか生き延びたが、アシルトの方は戦いに疲れて死んでしまう。一人になったエンコルピオは、次にアリアドネ―の洞窟へとやってくる。土地の人々は、エンコルピオをテーセウスの再来と勘違いする。そして、テーセウスと同じように、ミノタウロスをやぶるよう求められる。そのミノタウロスは異常な腕力の持ち主で、エンコルピオの歯の立つ相手ではなかった。そこでエンコルピオは降参して命乞いをする。許されたエンコルピオは、アリアドネの寵愛を受けるが、肝心なところで彼女を楽しませることができない。心因性のインポになってしまったのだ。

インポを治すことが、エンコルピオの次の課題となる。そこへ、詩人のエウモルポが突然あらわれ、エノテアについて語ってくれる。エノテアは、股の間から火を生じて人々に与えるばかりか、成年のインポも治してくれるというのだ。エノテアは、数百キロもあろうかと思われるような巨大な女であった。エンコルピオは、彼女に抱かれるようにして挑戦したところ、嬉しいことに勃起力が復活してきた。勃起力の復活は、生きる気力の昂揚をももたらすのだ。

やがて詩人のエウモルポが、静かに死んでいった。彼は死に臨んで不思議な遺言を残した。自分が名前を記した人間のうちで、自分の死体を食らった人間に財産を分け与えようというのだ。その中にはエンコルピオの名も含まれていた。しかし彼には死体の肉を食うなど、とてもできない。だが、中には死体の肉を食うことで財産が手に入るなら、喜んで食おうという者がいて、その連中が押し寄せてくる。その連中の醜悪な人肉食いを横目にしながら、エンコルピオは新たな旅へと船出するのだ。

こんなわけで、この映画は、現代人の眼には極めて荒唐無稽なものとして映るかもしれない。しかし、よくよく反省してみれば、そんなに荒唐無稽とも言われないだろうとわかる。というのも、フェリーニがこの映画を作った20世紀という時代は、人類的な規模で人間同士の殺し合いが行なわれた時代だったわけで、スケールの大きさからいえば、ネロの時代よりも20世紀のほうが、はるかに生臭い事件に彩られていたわけである。その極めて明らかなことが、我々によく見えないのは、我々が偽善者である証拠だ。そうフェリーニは言いたいのかもしれない。





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