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ドイツ零年(Germania anno zero):ロベルト・ロッセリーニ



ロベルト・ロッセリーニ(Roberto Rossellini)は、「無防備都市」と「戦火の彼方」でナチスドイツの非人間的な残虐性を描いたが、「ドイツ零年(Germania anno zero)」では、ドイツ人全体が、呪われた民族であるかのような描き方をした。この映画に登場するドイツ人たちは、戦争に敗れて生活を破壊され、みなひどい目に会っているが、それはほかならぬ自分たちに責任があるので、他人を非難するわけにはいかない。いわば自業自得なのだ。その上、この映画に出てくるドイツ人は皆不道徳な連中ばかりで、子どもが自分の父親を殺すようなことまでする。こんな忌まわしい光景を見せられたら、世界中どの国の人間でも、ドイツ人を憎まないわけにはいなかいだろう。そんなメッセージが、この映画からは伝わってくる。

ロッセリーニはこの映画を、ドイツ人を使って、ドイツ語で作った。だから原本はドイツ映画と言ってよいほどドイツ色に染まっている。実際、ドイツでも同時公開された。にも拘わらず、映画の国籍はあくまでもイタリアである。この映画をドイツ映画として見たら、ドイツ人たちはみな怒り出したことだろう。彼らの反応が実際どうだったのか、筆者にはよくわからぬが、この映画を見て平静であり得たドイツ人は多くはなかったろうと思う。

この映画が公開されたのは1948年だから、ドイツはまだ戦後の大混乱の只中だった。映画の舞台となっているのはベルリンの市街だが、そこは廃墟の街としてのイメージが濃厚だ。その廃墟となった街で、敗戦国たるドイツの市民がぎりぎりの生活を強いられている。映画の主人公であるエドムント少年の家族は市営住宅のようなところに住んでいるが、そこにはなんと五つの世帯が同居している。住宅難のために、市の住宅局が市民に共同生活を強いているのだ。

日本の戦後もそうだったが、ドイツの戦後も深刻な物資難に陥り、市民の生活は国による配給制度によって支えられていた。エドムント少年の家族は四人いるが、配給は三人分しかない。兄がもとナチスの軍人で、身元がばれると処罰されるのではないかと恐れて、公の申告をしていないからだ。ただでさえ乏しい配給物資が、実際の人数分来ないので、家族の生活は厳しい。腹いっぱい食うこともできない。それ故、父親が病気で市営病院に入院すると、少なくとも彼だけは食事に事欠かないと言うので、家族全員が喜ぶと言った有様だ。

この映画に出てくるドイツ人たちは、皆互いに憎み合っている。エドムントの家族でさえ、互いに信頼しあうというところは見られない。父親は上の息子を相手に愚痴ばかりこぼしているし、姉もまたこの兄を非難してばかりいる。だから、エドムントは家にいることが面白くない。それ故、街をうろつきまわり、不良連中と付き合ったりしている。

この映画にはまた、ナチスの生き残りたちも出てくる。彼らは戦前の自分たちの行為を処罰されることを恐れて、身をひそめて生きているが、本心はちっとも変っていない。その一人として、エドムント少年の担任教師だったという男が出て来る。この男は、エドムントを自分の商売の手先として使役するかたわら、この少年にナチスの思想を吹き込む。それは弱い者は死に、強い者だけが生き残るべきだという優生思想であった。エドムントはこれを、自分の家族に当てはめて、父親は生きている資格はないと思うようになる。父親は家族の足枷になっていて、このままでは家族全員が共倒れになる、と思うわけである。それで彼は、父親を毒殺するのである。

12歳の少年が自分の父親を殺すというのはいかにもショッキングだ。いくら、もと教師に吹き込まれたとはいえ、それなりの確信を抱きながら父親を殺すというのは、人間のできることではない。しかし、その非人間的な、悪魔の仕業とも言うべきことが、実際に行われた。ドイツ人の一少年によって。それは、子どもとはいえ、ドイツ人だからできたことだ。ドイツ人と言うのは、それほど道徳的に堕落した民族なのだ。こうロッセリーニは言いたいかのようである。

それで映画が終ってしまったら、いくらなんでも救いがないということになろう。それ故ロッセリーニはこの少年を自殺させるのである。自分の行為について迷いを覚えた少年は、その迷いをとりあえず元教師にぶつけるが、教師は自分の身の安全ばかり考えて、教え子の迷いに応えようとしない。一層迷いを深めた少年は、どうしてよいかわからずに、街じゅうをうろつきまわる。父親の遺体がある自分の家には、いたたまれないのだ。そんな少年の迷いに応えてくれるものは、どこにもいない。孤立した少年は、次第に生きる希望を失っていく。そしてついに、廃墟となったビルの上から飛び降りて自殺するのである。

この少年が自殺したのは、彼にいくばくかの良心が残っていたからだろう。もしもドイツ人が道徳的に立ち直れるとしたら、それはこの少年の持っていたような良心を、すべてのドイツ人が失わない限りにおいてだ。この映画は、そんなドイツ人の、将来へ向けての可能性について訴えかけたものだ。「ドイツ零年」という題名は、新たな未来へ向けて、ドイツ人がゼロから再出発するべきだという意味を込めて命名したものである。そうロッセリーニは言っているかのようである。

とにかく、見ることが疲れる映画である。





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