壺齋散人の 映画探検
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ルキノ・ヴィスコンティ「ベリッシマ」:幼い娘に夢を託した母親



ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)の1951年の映画「ベリッシマ(Bellissima)」は、よくできたコメディ映画として評価が高いが、筆者のような一日本人が見ると、イタリア女性の逞しい生き方が伝わってきて、色々な面で圧倒されてしまう。ヴィスコンティは、処女作の「郵便配達は二度ベルを鳴らす」でも、自意識の高い女を描いたが、この映画に出てくる母親は、世界は自分を中心に回っているといわんばかりの、積極的な生き方をしている。こんな女性は、日本人には絶対いないタイプだ。

映画が好きで、しょっちゅう野外映画を見ていた子持ちの女性が、撮影所で子役を募集していると聞き、自分の娘を売り込みに行くところから話は始まる。募集の条件は六歳から八歳までの女の子と言うことだったが、この女性は五歳の娘を七歳だと偽って、なんとかオーディションに合格させようとする。しかし、五歳の少女では、まだ舌もよくまわらないし、自分の感情もコントロールできない。そんな娘を母親は、おだてたりすかしたりして、人前でもお利口さんに見えるように頑張らせるのだが、果してその努力は酬われるのか、というのがこの映画の味噌である。

映画界というのは、コネで動く世界だというので、母親はこの撮影所の関係者の中からコネとして役立ちそうな人物と仲良くなる。その人物は、母親の願いに付け込んで、彼女を食い物にしようとするのだが、彼女の方では、食い物にされていることを半分わかっていながら、進んで食い物になろうとする。結局、娘はコネの力ではなく、その天性の魅力によって映画監督の心を捉えるのだが、映画界のえげつなさを散々見せつけられた母親は、こんなところに娘をゆだねるわけにはいかないと言って、子役の契約を断ってしまうのである。

だからといって、この映画が当時の映画界を批判しているというわけでもないようだ。この映画の最大の見どころは、何といってもアンナ・マニャーニ(Anna Magnani)演ずる肝っ玉母さんの生き方だ。いつも大袈裟な身振りで歩き回り、大声で喚きたてるように話し、自分の意見はずけずけと言う。亭主を相手にとっくみあいの喧嘩をしたり、亭主の母親から嫌味を言われるとボトルを投げつけたりもする。とにかく天真爛漫なのだ。

撮影所に勤めているある男と仲良くなると、早速その男から金をせびられる。彼女は看護婦としての仕事から、ある程度のへそくりを貯めているのだが、それを男からねだられるわけだ。男は金の代わりに体で払ってもらってもよいなどともいうが、女は体で払うわけにはいかないから、やはり金で払うという。その金は、娘のプロモーションのための資金という名目なのだが、男はそれでスクーターを買うのである。

この映画はこの女の、娘のためのプロモーション活動と、男との関わり合いを交差軸にして展開していくというわけである。テンポが良いので、見ていて突っかかりがないし、画面は澱みなく流れて行く。ルキノ・ヴィスコンティという人は、映像処理のうまい監督だと、感じさせられる。

ベリッシマという言葉は、募集した子役を採用する予定の映画の題名になっている。また、映画の冒頭で出てくるコーラスの中にもベリッシマと言う言葉が出てくるが、これは件の映画のテーマ音楽というつもりなのだろう。ベリッシマというのは、「とても綺麗」という意味のイタリア語だ。これは、件の映画の主人公らしい子役のことをさしているとともに、この映画の娘役そのもののことをもいっているらしい。

アンナ・マニャーニは、「無防備都市」でも子持ちの女性を演じ、大変な存在感を示したものだが、この映画の中では、それが極限にまで達していると言ってよい。愛する子どものために夢中になった女性という役柄が、そうさせたのだろうと思う。



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