壺齋散人の 映画探検
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ルキノ・ヴィスコンティ「ヴェニスに死す」:トーマス・マンの小説を映画化



ルキノ・ヴィスコンティ(Luchino Visconti)の映画「ヴェニスに死す(Morte a Venezia)」は、ドイツの作家トーマス・マンの同名の小説(Der Tod in Venedig)を映画化したものである。この小説は、中年男の少年愛をテーマにしたものだ。トーマス・マン自身、少年愛の性癖があって、それを小説の中で吐露したと言われる。ルキノ・ヴィスコンティにも同性愛の傾向があったことはよく知られたことであり、彼もこの映画を通じて、自分の少年愛を吐露したのだと指摘されている。

原作では、トーマス・マンの分身と思しきドイツ人の作家の眼を通じて、一人の美しい少年の姿と彼への作家の愛が語られる。これをヴィスコンティは、ドイツ人の作曲家というふうに変えて見せた。その作曲家とは、マーラーのことであるらしい。というのも、この映画には、全編にわたってマーラーの交響曲が流されているからである。また、この作曲家の友人で、やはり音楽家と思われる人物が登場するが、これはマーラーの友人であったシェーンベルグだと言われている。

映画では、自分の芸術に行き詰った主人公の中年男グスタフ・アッシェンバッハ(グスタフはマーラーのファースト・ネーム、アッシェンバッハはマンの小説の主人公のラスト・ネーム)が、静養のために訪れたヴェニスを舞台に、そこで出会った一人の少年に恋い焦がれる様子を描いている。原作同様、この中年男の少年愛は、一方的な片思いである。彼は少年に直接自分の思いをぶつけるわけでもなく、ただ遠目に彼を眺めるだけである。ストーカーというにも値しないような、ひっそりとした片思いに甘んじている。だからそれは、対象のある愛には違いないが、相手と現実に交わることのない愛という点で、自己愛が形を変えただけのものだというようにも感じられる。実際この映画の中では、アッシェンバッハは、少年を愛しているのか、自分自身の影を愛しているのか、判然としないような曖昧な感情に囚われているようなのである。

アッシェンバッハ(ダーク・ボガード Dirk Bogarde)は、船でヴェニスにやって来る。リドにあるホテルに投宿し、そこで怠惰な毎日を送るようになるが、それは病んだ心身をいたわるためだった。ホテルには、世界中から、金持が集まって来ている。その金持連中が、これもまた怠惰な毎日を、ヴェニスを舞台に送っている。自分自身イタリアの貴族であったヴィスコンティには、人間というものは、いくらでも怠惰な日々を送ることができるのだということが十分身に染みてわかっていたのだろう。映画の中で描かれた人間の怠惰ぶりは、だから、彼の実際の観察に裏付けられているのかもしれない。

このホテルのロビーで、アッシェンバッハは一人の少年(ビョルン・アンドレセン Björn Andrésen)に眼を止め、一目惚れをしてしまう。この少年はポーランドの貴族の出でタージオと呼ばれ、ヴェニスへは母親や姉妹たちと共に遊びに来ていたのだった。

この出会いは電撃的なことだった。少年への愛に心を突き上げられたアッシェンバッハは、それ以来、少年の姿を執拗に追い掛け回す。海岸の砂浜では、水着姿の少年にエロスを感じ、エレベータの中で一緒になった時には、その匂いに恍惚となる。そんな中年男の存在に少年も気づくのだが、とりわけ彼の方からアクションを起こそうとはしない。

映画は当分の間、アッシェンバッハが少年を追い回す場面を延々と映し出すだけだ。アッシェンバッハは、一旦ヴェニスを引き上げてドイツに帰ろうとしたりもするが、結局はまたホテルに戻り、少年の後を追いかけまわす。そうなると、彼の行動は、第三者の目から見ると、夢遊病者のように映る。その夢遊病者を映し出す場面は、あたかも夢の中の世界を再現しているように見える。映像技術的にも、そうした雰囲気が強調されるような工夫がなされる。ロングショットを中心に、しかもカットが非常に長い。だからゆったりとした雰囲気で映像が流れて行く。まさに夢の中を覗いているような具合に。この辺は、ヴィスコンティの腕の冴えが目立つ。

そのうち、アッシェンバッハは妙な光景を目にするようになる。町中に消毒液が播かれ、また街角には汚物を焼却した煙が立ち込める。地元の人々に聞いても、誰一人納得する答えをする者はいない。だが、そのうち、疫病が流行り出したとの噂が立つようになる。その疫病とはアジア・コレラのことだった。コレラがヴェニスに上陸し、人々を捕え出していたのだ。だが風評被害を恐れる地元当局は、その情報をひた隠しにしている。そのため、コレラに罹って死ぬ者も出てくる。それに驚いた観光客は続々とヴェニスから逃げ出す。原作ではたしか、ポーランド人家族も逃避した後に、アッシェンバッハだけが残り、そこでコレラにかかって死んでいくというようになっていたと思うが、映画では、アッシェンバッハもタージオも最後までホテルにいるようになっている。

アッシェンバッハが、自分もコレラに罹ったと自覚した時に、とった行動が面白い。彼は、美容院に入っておめかしをするのだ。髪の毛と鼻髭を当世風にカットし、顔には白粉を塗り、口紅までつける。まるで、発情した牡孔雀のようになったアッシェンバッハは、その姿をタージオに見てもらい、自分の男ぶりを褒めてもらいたいと思うのだが、気の弱い彼には、タージオに接近する勇気がないのだ。

そうこうしているうちに、疫病の魔手が彼の全身を捕える。彼はいつものように海岸の砂浜にディヴァンを据え、そこに体を沈めるのだが、やがて意識を失ってしまう。額から黒い血を流しながら。

上述したように、この映画には、全編にわたってマーラーの曲が流れ、それに乗ってアッシェンバッハの心の風景がゆっくりと展開されてゆくのだが、一つだけマーラーのものではない曲が流される。それは、ベートーベンの「エリーゼのために」と言うピアノ曲だ。ホテルのロビーでこの曲を弾いているタージオを見かけたアッシェンバッハが、昔のことを回想する。その回想の中でも、この曲が流れている。回想の中でこの曲を弾いていたのは娼婦だった。彼はこの娼婦とセックスをする段になって、突然インポテンツになってしまったのだった。なぜ、そんなことを思い出したのか、映画は詳しくは触れない。



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