壺齋散人の 映画探検
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今村昌平「黒い雨」:井伏鱒二の小説を映画化



井伏鱒二の小説「黒い雨」といえば、原爆の悲惨と被爆者の苦悩を描いた文学の代表的なものと言える。筆者も昔読んだときには、しばらくの間沈うつな気分から脱せられなかった。それほどシリアスな雰囲気の作品である。ところがそのシリアスな作品を、笑いの精神を常に忘れたことのない今村昌平が映画化するというのはミスマッチな感じがしないでもない。およそ笑いとは縁のない世界を、世の中を笑い飛ばしてきた今村が、どのように表現するか。

結果的には、この映画は人々に深い感動をもたらすという点では成功したのではないか。この映画を見ると、原爆の悲惨と被爆者の苦悩が、強烈なインパクトを以て伝わってくる。だからといって、この手の映画にありがちの、告発的な調子とか、世の中に対する絶望のようなものはほとんど感じられない。被爆した人は、自分の運命を嘆きながらも、それを他の悪魔的な力のせいにして、自分の生き方から逃げようとはしていない。自分の運命に立ち向かおうという気配さえ感じさせる。

井伏は、原作になる小説を被爆者の実体験を記したメモをもとに書いたという。この小説のテーマは二つあって、ひとつは被爆がもとで口さがない噂を立てられ、縁談がなかなかうまくゆかない姪の苦悩と彼女を見守る叔父のあせりを描くことであり、もうひとつは原爆災害の悲惨さを描くことにあった。原作は小説であるから、原爆災害の悲惨さは観念的にしか伝えられないが、映画の場合には視覚的イメージを駆使してかなりストレートに表現できる。もっとも、今村の映像には抑制がかかっていて、原爆被害の惨状をあからさまにさらすようなことはしていない。それでも、漫画「はだしのげん」などを参考にしながら、被爆直後の被害者たちの痛々しい様子を表現してはいる。

ともあれ今村が、1989年に作ったこの映画をわざわざ白黒にしたのは、原爆被害の実態を抑制的に描こうとする姿勢の現われだったのだろう。

なんといっても叔父に扮した北村和夫の演技がすばらしい。今村はこの映画の中で、原爆が投下された瞬間の広島の様子にさらりと触れるだけなのだが、唯一投下の瞬間に巨大なショックに見舞われた人々の群像を描くところが出てくる。それは駅に停車していた列車が爆風のために破壊される場面なのだが、その破壊された列車の中にいた一人が北村ということになっている。その後北村は、広島市内の自分の家から妻を助け出し、心配して駆けつけてきた姪と合流し、三人で被爆直後の広島の町を歩き回る。つまり北村は、ほぼ直撃に近い形で被爆し、その後も二次被爆に晒され続けたわけだ。

だから北村はまっさきに原爆病にかかって死んでもおかしくなかった。ところが、投下後の広島に救援に入り、そこで二次被爆したもののほうが先に原爆病を発症し、次々と死んでゆく。その中には心の頼りにしている親しい友人たちもいた。そのうち、自分の妻も原爆症で死に、ついには姪までも原爆症を発症する。そうした中で、アメリカのトルーマン大統領が、朝鮮戦争のこう着状態を打開する為に、原爆投下を検討しているとのニュースがラジオで流れる。それを聞いた北村は、暗澹たる表情を浮かべていうのだ。「正義の戦争より、不正義の平和のほうがましなのじゃ」と。

姪の矢須子に扮した田中好子の演技もなかなか良い。彼女は広島郊外の叔父の本宅で原爆投下の情報に接し、すぐさま広島に駆けつけるのだが、その時に降って来た黒い雨に打たれたことで二次被爆した。ところが、広島の市内で直接被爆したという噂を立てられ、次々と縁談が壊れる。叔父はそれを苦々しい気持で見ており、なんとかして噂の誤解を晴らして姪の縁談を成功させようとするのだが、なかなかうまくゆかない。そのうち彼女自身も、自分の体に異変が起きていることに気付く。いよいよ原爆症が発症したのだ。そんな彼女にとって、村のある男とのかかわりが一つの慰めになる。その男は戦場での体験がトラウマとなって、深刻な神経障害を病んでいる。その男と一緒にいると、姪は心の安らぎを感じるのだが、これは原作にはない部分で、今村が井伏のほかの小説のキャラクターをさしはさんだものだ。今村は「楢山節考」でも、本筋とは別の物語をほかの小説から借りてきてさしはさんでいるから、これは彼の趣味の現われなのだろう。

かくしていよいよ矢須子が倒れ、男に抱かれながら病院に向かうシーンで映画は終わる。その際に北村が、遠くの山を眺めながら、あの山に白い虹ではなく七色の虹が架かったら、矢須子の命は助かるに違いないと自分に言い聞かせる。しかし画面に虹が現れることはない。

この映画でひとつわかりづらいのは、叔父の家が広島の市内と郊外とに別れてあるらしいことと、矢須子の実の父親と言う人の位置づけが曖昧だと言う点だ。もっとも原作でも、このあたりはあまり明確には書かれていない。そういうところについては、井伏には鷹揚な部分がある。大体井伏という作家は、軽いタッチのコミック・ストーリーが得意な人で、「黒い雨」のような重い感じの話には縁がなかったはずなのだ。その点では、笑いが身上の今村がシリアスな話に縁がないのと同断だといえる。要するに二組のミスマッチがからみあって、こんな映画ができたというわけであろう。



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