壺齋散人の 映画探検
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埋もれ木:小栗康平



小栗康平の映画「埋もれ木」は実に不思議な感覚に満ちた映画である。普通の映画が持っている筋書きのようなものをほとんど持たないし、登場する人々も普通の人間のような存在感を持たない。ある種のファンタジー映画でありながら、普通のファンタジーでもない。というのも、この映画は、三人の少女たちが語る架空の作り話の世界が、現実の世界の人間たちの物語と交じり合い、もつれ合っているおかげで、純粋のファンタジーでもなく、かといって現実の出来事でもない、といったきわめて曖昧な世界を、曖昧に描き出しているといった映画なのである。

こういう映画は、アンチ・ムーヴィー(反映画)といってよいかもしれない。アンチ・ムーヴィーの先駆としては、フェデリコ・フェリーニの中期以降の映画やミケランジェロ・アントニオーニの愛の不毛三部作が挙げられるが、小栗康平のこの映画は、それらよりもっと進んだ形のアンチ・ムーヴィーである。この映画は映画であることにこだわりを持っていない。映像の芸術であればそれでよい、映像芸術は、なにも映画に限定されるわけではないので、映画作りの約束事にこだわる必要もない、そんなふうに思わせ、観客を挑発するところがある。

映画作りの約束事を無視しているのは、時間軸に沿った映画の進行(通常筋書きと呼ばれるもの)を無視していることにとどまらない。カメラワークもおよそ従来の映画の常識を破っている。モンタージュとかクローズアップとか、通常の映画作りのテクニックは極力排除され、ロングショットでワンカットを貫くという手法が用いられる。要するに、作り物の画面ではなく、ファンタジーなり現実世界なり、どこかで起こっているなにかのことを、遠くから覗き見するように映し出している、といった具合なのである。

カットとカットの間には、ほとんど脈絡がない。それぞれのカットは、少女たちの織り成している物語の一部分であったり、現実世界で起こっている出来事であったりするわけだが、それらが時間軸に沿って体系化されるわけではなく、相互にまったく無関係に継起する。継起するというのは、時間の前後関係を意味する言葉だから、この映画には当てはまらないかもしれない。というのも、この映画の中で次々と展開していくシーン(=カット)は、相互になんらのつながりも持たないからである。

「せめて一緒に踊りましょうよ、とわたしはあなたをさそいました」
この何気ない言葉で映画は始まる。この言葉は、画面に登場した三人の少女のうちの一人が発した言葉なのだが、この少女は、自分のつむいだ小さなファンタジー物語の冒頭にこの言葉を置いたわけなのだった。この言葉に励まされたその少女は、他の二人の少女に向かって、それぞれがファンタジーを作って、それを次々に披露しあおうと提案する。その提案に乗って、他の少女たちも自分のファンタジーを語り始める。こうして、三人の少女の語ったファンタジーの内容が、映画の画像として、次々と表現されていくわけである。なにぶん、未熟な少女たちの織り成したファンタジーであるから、論理的なつながりもなければ、物語としてのまとまりもない、ただたださまざまな物語の要素が脈絡もなく継起するといった具合なのだ。これが、この映画の主要な部分をなしているわけだから、全体としての印象がファンタスティックになるのは当然のことだ。

映画では、この三人の少女たちと彼女らを取り巻く人々の現実の生活が、ファンタジーと交差するように織り成されて表現される。これらの現実の要素を生きる人々にも、少女たちのファンタジーと同じように、大した論理性は見当たらない。だいたい人間の生活なんて、論理的な整合性で説明できるわけのものではない、といったある種の信念が、この映画を非論理的な映像の継続にさせているのである。

少女たちのファンタジーは、駱駝をめぐるものだったり、鯨の冒険の物語であったり、山の中の不思議な物語であったりする。彼女らは、山に抱かれた小さな町に住んでいるという設定なのだ。

一方、現実世界の人々は、廃屋のようなマーケットで儲からない商売をしていたり、そのマーケットに住んでいる魚屋のもとにブラジルから巨大な鳥の卵が贈られて来たり、自分の子どもたちの仕打ちに不満を持っている老女がヒステリーを爆発させたりする。その合間に子どもたちが山の中に迷い込む話がさしはさまれるのだが、これは現実に起こった出来事なのか、それとも少女たちのファンタジーの一こまなのか、画面からは伝わってこない。この映画では、ファンタジーと現実世界との境界が曖昧なので、ある場面がどちらの側の要素なのかと問うこと自体がナンセンスなのである。

そのうちに大雨が降って、水溜りの中から巨大な木の化石が出現する。それは大昔の洪水で水底に沈んでしまった原生林が、なにかのきっかけで再び姿をあらわしたものなのだということがわかる。人々は、この大昔に地下に埋没した森林を埋もれ木と称し、その埋もれ木が姿をあらわしたことを祝ってお祭りをすることとなる。ここで、映画は、少女たちのファンタジーと現実世界とが完全に交わりあうのである。

山の懐で催されたそのお祭りの会場には、町の人々が大勢集まってくる。その人々に混じって、少女たちのファンタジーの登場人物(動物)たちも現れる。駱駝は子供たちに先導されて練り歩き、鯨は風船に乗って天上に舞い上がっていく。ここまで来ると、ファンタジーと現実世界との境界は完全に取り除かれる。少女たちのファンタジーがそのまま現実世界とまじわりあうのだ。

こんなわけでこの映画は、世界の映画史上でも、他に例を見ないユニークな作品なのではないか。





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