壺齋散人の 映画探検
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太陽の墓場:大島渚



大島渚の1960年の映画「太陽の墓場」は、同年の「青春残酷物語」に引き続き大当たりを取った。「青春残酷物語」が当時の日本人に受けた理由がなんであったか、いまとなってはよくわからぬが、暴力と悪行を乾いたタッチで描いたことが効いていたとは言えるようだ。後続の「太陽の墓場」は、その暴力と悪行をさらに拡大させた形で描き出した。日本映画には、やくざ映画を典型とする一連の暴力映画の系列があるが、この映画はそのなかの傑作の部類に入るのではないか。

というのも、この映画は、単に暴力と破壊を描くのみではなく、当時の社会が抱えていた病巣と言うべきものへの視線を感じさせる。社会派映画としても、それなりに考えさせるところがあるわけだ。

舞台は大阪のドヤ街・釜が崎。戦後日本の社会矛盾の吹き溜まりのようなところだ。映画は、このドヤ街を根城に生きている人間たち(人間の屑と言ってよい)の、彼らなりに必死な生き方を描いたものだ。たいした筋書きはない。釜が先に流れる日常の時間の流れ自体が筋書きみたいなものだ。

一応主役と呼べるキャラクターはいる。炎加代子演じるドヤ街のずべ公・花子だ。花子の父親(伴淳三郎)は、ドヤ街の一角にバラック数棟を所有し、そこに宿無しどもを住まわせている。娘の股の間を覗き込むような、どうしようもない親爺だ。一方娘のほうは、愚連隊の子分と組んで売血斡旋の闇商売をしている。その愚連隊は、女に売春させてピンハネしている連中で、主な仕事はぽん引きだ。この愚連隊に、二人の男が加入する。その一人がささきいさお演じる武だ。この男は変な男で、愚連隊の兄貴分(津川雅彦)から同性愛的な思いをかけられる一方、花子とセックスしたりもする。この武が、花子と並んで、この映画を引っ張っていく。

花子は、一方ではこの愚連隊とかかわりあいながら、もう一方では自分のビジネスである売血を通じて釜が先の下層階級と関わっていく。まあ、彼女自身が下層階級の女神みたいな存在なのだが、やはり女神には貧民たちとは違うところがある。別に背中から後光がさすというわけでもないが、彼女の歩くところには必ず波乱が巻き起こるというわけなのだ。

結局、セックスで結びついた武は愚連隊の兄貴分を道連れにして列車に轢かれてしまうし、ドヤ街にある父親のバラック(自分の居場所)は、住民たちの狂乱の巻き添えをくらって焼き払われてしまう。花子は、恋人も居場所も失ってしまうわけなのだが、だからといって生きることをやめるわけにはいかない、というわけで、乞食の相棒の手を引っ張って売血ビジネスに向かっていくのである。

この単純な筋に沿う形で、暴力と破壊のシーンが繰り返し映し出される。稼ぎの悪い女に焼きを入れる場面、その女を盗んで逃げようとした男が殺されるシーン、武とその相棒が公園で抱き合っている男女を襲い、女を強姦するシーン、戦争の再勃発を信じて疑わない男がドヤ街の貧民どもを洗脳したあげくに、彼らをダシに金儲けをしたはいいが、その仕組みがばれて追求されると手榴弾を爆発させバラックを吹き飛ばしたりするシーン。どのシーンも、非現実的でありながら現実でもありうると感じさせる。この当時にはまだ、戦争中の暴力と破壊の記憶が人々の頭に刻み込まれていて、この映画の中で展開されるような暴力は珍しいものではなかったのだろう。

大島は、この映画のために、現実の釜が崎の一角にオープンセットを作ったそうだ。バラックがそれだと思われる。それ以外の、歓楽街などの街の風景は実在の風景をそのまま映し出しているのだろう。その乾いた風景こそが、この映画の影の主役だと言えるかもしれない。

主演の炎加代子がすさまじい演技振りを見せている。彼女はこの映画の出演時まだ二十歳前だったというが、若いなりに、あるいは若さゆえに、ギラギラした命の動きを感じさせた。一方、武を演じたささきいさおのほうは、後に「宇宙戦艦大和」のテーマソングを歌ったことなどで知られるが、この映画の中では、少年のようなところを感じさせる。津川雅彦演じる愚連隊の兄貴分が、性的に惹かれると言うのも十分納得できる。津川雅彦の演技は、顔の造作同様ソラとぼけた雰囲気を漂わせていた。

なお、この映画も「青春残酷物語」同様に「太陽の季節」のパロディになっている。題名がそうだし、青春群像の描き方がそうだ。





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