壺齋散人の 映画探検
HOMEブログ本館美術批評東京を描く水彩画動物写真西洋哲学 プロフィール掲示板



大島渚「日本春歌考」:俗謡に込められた民衆のエネルギー



1967年の映画「日本春歌考」は、当時ベストセラーになっていた添田知道の同名の俗謡集に、大島渚がインスピレーションを受けて即興的に作った作品と言うことになっている。映画を即興的に作るという点では、大島は「日本の夜と霧」で実験的な試みをしていたが、この「日本春歌考」は、同じく即興的な作品でも、「日本の夜と霧」より完成度が高いと言えよう。完成度と言っても、芸術的な意味での完成度ではない、メッセージのもつ説得性のようなものがより強力だという意味だ。

大島がインスピレーションを受けたのは、俗謡のなかに込められた民衆のエネルギーのようなものだったらしい。この俗謡集は、単に俗謡を集めただけのものだったらしいので、そのままでは映画には結びつかない。その断絶のようなものを、大島が自分なりに埋めて、一篇の映画に仕立て上げたというわけである。

「春歌考」という題名にもあるとおり、この俗謡集は猥褻な歌を中心に編集している。猥褻な歌はそれまで、猥歌あるいはエロ歌などと呼ばれていたものだが、添田は春画の連想から春歌と名づけた。それを大島が映画で取り上げることで、この言葉が猥褻な歌の総称として広く普及することになった。

大島は「春歌考」の俗謡の中から何曲かを取り上げ、それらを執拗に歌わせる。それもただ歌わせるだけではなく、ある一定の文脈の中で歌わせる。その文脈とは、左翼の歌う労働歌、新左翼の歌う革命家、右翼の歌う軍歌、能天気な青年たちが歌うアメリカンポップスへの対抗である。こうした色々な立場の人間の歌に対するカウンターソングとしてエロ歌を歌わせることで、こうした歌が単なる猥褻の産物ではなく、極めて政治的なメッセージを込めた歌なのだということを、大島は主張しているかのように見える。この映画はだから、新左翼崩れとしての大島の白鳥の歌のようにも聞こえる。

映画の中で歌われる春歌としては、「ひとつ出たほいのよさほいのほい」で始まる「よさほい数え歌」ほか数曲があるが、この中で筆者が馴染みのあるのは「よさほい数え歌」だけで、他は知らない。この数え歌は、女との性交を面白おかしく茶化しながら歌ったもので、女の耳には聞くに堪えない筈なのだが、この映画に出てくる女たちは、それを喜んで聞いている。

だいたい、この歌を映画の中で最初に歌うのは高校の教師で、それもその教師が七人の教え子の前で歌うのだ。その席では、となりで大勢の右翼たちが日の丸を前にして軍歌を歌っており、また、四人の男子生徒たちは、三人の女子生徒を前に性欲が高まっている。軍事的興奮と性的興奮とは似通ったようなものだから、性のうずきと軍歌の響きに壟断されて、男子生徒たちは性欲の熱火に焚きつけられてしまったわけである。だから、彼らを前に「よさほい数え歌」を歌ってやることは、一見性欲を駆り立てているようで、実は鎮める効果を果してもいるわけである。何故ならそれは、性欲を笑い飛ばすものだから。

この七人の生徒たちと言うのは、大学受験のために東京へ出て来たところなのであった。受験会場は雪に埋まり、その近くにはお茶の水の聖橋が架っていることになっているから、神田界隈の大学に受験に来たのだろう。しかし、彼らのうち四人の男子生徒の関心は受験の結果などより、試験会場で見た美人のことだった。彼らは何とかこの美人と近づきになり、できればセックスしたいなどと思う。その挙句に、四人でこの美人を強姦するシーンを妄想したりもする。要するに、年ごろの男子として性的欲望を抑えきれないでいるのだ。

一方、三人の女子たちは、性的なことがらからは一歩身をひく振りをしている。彼女たちには、男子たちとセックスするより、もっと大事なことがほかにいくらもあると言った具合に。そんな彼女たちにとって、先生の死はショックだった。この先生(伊丹一三)は、七人の教え子を飲みに連れて行ったり、彼らによさほい数え歌を歌ってやってやり、その上彼らに泊る所の世話をしてやったあと、ガス中毒で死んでしまうのだ。その場に偶然、男子生徒の一人(荒木一郎)が居合わせる。だが荒木は、先生を助ける行為をせずに、そのまま中毒で死なせてしまう。何故そんなことをしたのか、荒木自身にも整理できない。ただただ先生から教わったよさほい数え歌を歌ってごまかすばかりなのである。

この先生には恋人(小山明子)がいた。小山は荒木から、伊丹が死にそうだというのに、荒木がそれを助けようともせずに、よさほい数え歌を歌っていたと聞かされ、大いに嘆く。しかし、荒木を責めることはしない。それどころか、荒木にセックスの手ほどきをしてやるのである。

一方、四人の男子生徒たちの性欲はいよいよ高まっていく。彼らは、妄想のなかで美女を強姦するだけでは飽き足らないと感じる。そんなところに当該の美女が突然現れる。男子生徒はその美女に向って、我々はお前を妄想の中で強姦したと伝える。すると意外なことに美女は、その場面を再現して欲しいと言い出す。喜んだ男子生徒たちは、今度は妄想の中ではなく、現実世界でのこととして、美女を強姦しにかかる。そんな生徒たちに向って小山が、古事記の注釈を始める。古事記の崇神天皇伝は、崇神天皇が朝鮮半島渡来の征服王だったことを伝えています。ということは、日本人の故郷は朝鮮半島と言うことになるのです。こんなことを小山は叫ぶのだが、何故こんなことを彼女に叫ばせたのか、大島の意図がいまひとつわからないところだ。

こんな調子で、この映画はなんとも奇妙な部分で満ちている。尋常の批評をはね返すところがある。

なお、荒木一郎の演技が強烈な印象を与える。この俳優は、表情に乏しく、声も魅力的ではないのだが、それがかえって役にマッチしていた。荒木の演じた高校生の役は、ひねこびた悪童といった感じなのだが、その感じを荒木はいきばらずに自然に演じていた。だいたい、大島の映画に出てくる俳優たちは、大根ぶりが目立つのだが、この映画の中の荒木は、ぴったりと役にはまっている。小山明子の女大根ぶりはあいかわらずだ。



HOME日本映画大島渚次へ









作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2015
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである