壺齋散人の 映画探検
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戦場のメリー・クリスマス:大島渚



大島渚の映画「戦場のメリー・クリスマス」は、日本軍による捕虜虐待を描いた作品である。同じテーマのものとしてはデヴィッド・リーンの傑作「戦場にかける橋」が有名だが、日本軍の残虐さを描いたものとしては大島のほうが徹底している。しかも、そこには人間らしい触れ合いが全く見られない。日本兵はただただ悪魔のように残忍な生き物として、弱者である連合軍の捕虜を、恣意的に虐待するばかりである。とにかく、映画全体を通じて、日本兵による理不尽な捕虜虐待が、これでもかこれでもかというばかりに描かれ続ける。全く抵抗するすべを持たない弱い者を、かさにかかって虐待する日本兵の姿は、見ていて反吐が出るほどグロテスクなものだ。こんな映画を、日本人である大島がなぜ作ったのか。これは日本人による反日映画と言われてもいたし方がないところがある。

もっとも大島が単独で作ったわけではない。日本国内では資金が調達できなかったようで、イギリス人の資金を活用し、日英共同制作という形をとった。それ故、映画の中では日本語と英語が使われる。日本兵のほうは主に日本語をしゃべり、イギリス兵の捕虜のほうは英語をしゃべる。日本兵のなかでも捕虜収容所の所長は英語をしゃべる一方、捕虜の中には日本語をしゃべる知日派もいる。日本版の中では、英語の部分は字幕処理されるといった具合だ。

この映画は、ジャヴァの捕虜収容所での出来事を描いたということになっている。日本軍は、太平洋戦争の緒戦でマレー半島からインドネシア諸島を攻略し、大勢のイギリス兵やオランダ兵を捕虜にした。その捕虜の一部を収容していたレバクセンバタ捕虜収容所が映画の舞台だ。この収容所には数百名の捕虜がいることになっており、その中には大勢の傷病兵も含まれている。そんな捕虜たちに対して日本側は人間にふさわしい待遇をしない。年がら年中、なにかと難癖をつけては捕虜を虐待する。ビート・タケシ演じるハラ軍曹はその最たるもので、虐待を楽しんでいるかのように映る。とにかく、無抵抗な相手にわけもなく暴力を振るう。それは今の時代の陰湿ないじめよりも、もっと陰湿ないじめだ。いじめるときのタケシの顔は、喜びに震えているようである。

坂本龍一演じるヨノイ収容所長は、ハラ軍曹ほど単純ではないが、捕虜虐待を悪いことと思わない点では五十歩百歩だ。その収用所長の気に触る人間が二人いる。ひとりは日本語をしゃべるロレンス英軍中佐(トム・コンティ)、もう一人はセリアズ英軍少佐(デヴィッド・ボウイ)だ。ロレンス中佐のほうは、なんとか収用所側と意思疎通をし、捕虜の待遇をよくしようと考えている。セリアズ中佐のほうは、日本軍によっていったんは処刑されたのであるが、どういうわけか生き延びて、捕虜収用所へ転送されてきたということになっている。この男は、日本軍に対して敵意をあらわにする。そこでヨノイ所長以下の憎しみを買い、ついには拷問(生き埋め)を受けて虐殺されてしまうのである。

セリアズの虐殺といい、捕虜たちを家畜並みに扱うことといい、余りにも人間的なスケールを逸脱しているので、これらは本当にあった話なのかといぶかしくも思われる。しかし、この映画は大島の作り話ではなく、ローレンス・ヴァン・デル・ポストの実際の体験に基づいていると言う。ヴァン・デル・ポストは、この映画の中ではロレンス中佐として出てくる。この映画が、そのロレンスの視点から描かれているのは、原作を踏まえてのことだろうと思われる。

それにしても大島は、なぜこんな反日的ともいえる映画を作る気になったのか。大島には反権力的なところがあって、それはおそらく彼のアナーキスティックな心情に根ざしていると思われるのだが、その反権力の姿勢が、究極の権力たる軍部に向けられたということか。日本の軍部は、大島のような反権力の立場の人間からは、権力を振りかざす一方、その権力に対して無自覚だと見えたに違いない。権力に対して無自覚であるがゆえに、その行使について自制が働かない。単に感情の赴くままに、弱い者に暴力を加える。このように権力に無自覚な人間は、自分の行為についても無責任である。だからこそ、戦争が終わって、戦争中の犯罪行為を追及されると、自分には責任はなかったと言い訳をするわけである。この映画の中でも、戦後逮捕・拘留されて処刑を待つハラ軍曹が、自分を訪ねてきたロレンスに向かって、自分のしたことは、他の人間たちと同じだったのだと言い訳をする場面がある。つまり、自分のしたことの意味を、全くわかっていないと言う風に、描かれているわけである。

こんなわけで、この映画の中の日本兵は、実に情けない連中と言うふうに描かれている。残虐なだけでなく、その残虐さに無自覚なわけだから、それはもうまともな人間とは言われない。人間の姿をした、別の生き物である。ロレンスは、そんな日本兵たちを、個々人ではなにもできないくせに、集団としては狂人のように振舞うと評している。そんな連中でも、日本人を個人として憎みたくはないとまで言う。日本兵の非人間的な振舞いに対して、なんとヒューマンな言い方か。原作にそのようにあるのかもしれないが、そこまで日本兵を、日本人として貶める必要があったのか、筆者などには釈然としないところもある。

タケシはともかく、ヨノイを演じた坂本龍一は、よくこんな役柄を引き受けたものだ。ヨノイは、日本軍の非人間的な体質を具現しているばかりではなく、一人の人間としても問題がある。その理由が心を病んでいることにあるならば、まだ多少の救いもある。しかしヨノイは、別に心を病んでいるわけではない。彼がそのように見えるとしたら、それは日本軍全体が非人間的であること(病んでいること)の反射的な表れだ。つまり、この映画で描かれた日本軍は、「戦場にかける橋」で描かれた日本軍以上に、残虐で非人間的で狂った存在だと言うことになっているのである。

なおこの映画は、1983年のカンヌ映画祭に参加し、下馬評ではパルム・ドールの最有力候補と言われたが、実際に受賞したのは同じ日本人である今村昌平の映画「楢山節考」だった。妥当な結果だったと言えよう。「楢山節考」は究極の人間ドラマだ。それに対して「戦場のメリー・クリスマス」は、どうひいき目に言っても、「アンチ・ヒューマン」なドラマである。しかも、「アンチ・ジャパン」、それもかなりステロタイプな「アンチ」だ。この映画を見た海外の人々は、「戦場にかける橋」の出来の悪いバージョンと受け止めたのではないか。





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