壺齋散人の 映画探検
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キューポラのある街:浦山桐朗



「キューポラのある街」が封切られた1962年には、筆者は14歳の中学生だった。その中学生の筆者にも、この映画が描いていることは十分にわかった。当時はまだ、日本の社会には絶対的な貧困というものが蔓延していたし、そうした貧困によって押しつぶされている人が、自分の周囲にも大勢いた。だからこの映画の中に出てくる人々の苦悩や悲しみは、他人事ではなかった。吉永小百合演じるこの映画の中の主人公の少女は、そうした苦悩や悲しみに向き合いながら必死になって生きている。そうした彼女の生き方が、筆者の目には非常に身近に感じられた。この少女は、身近さを感じさせるとともに、尊さも感じさせた。その尊さとは、生きることの尊厳さを感じさせるようなものであった。

筆者はまだ少年の身ながら、もしこの世に観音様が現れたとしたら、それはこの少女のような姿をとるに違いないと思った。この少女は観音様のように慈愛に充ちており、また人をして生きる希望を沸き立たせる強さを併せ持っていた。以来筆者は、この観音様のイメージを吉永小百合という女優の姿に重ねあわせることで、彼女の熱心なファンとなったのであった。

少年の筆者でさえそう思ったのであるから、筆者よりも年齢が上の世代が、吉永小百合という女優に熱中したのは当然だと思う。筆者は彼女を観音様に喩えたが、筆者より上の世代の青年たちは、彼女を女神として祭り上げ、彼女の前にひざまづいたようである。それほど、吉永小百合が放っていた光は、燦然としていたのである。以来今日まで、この女優は人々の心を癒し続けてきたのではないか。

この映画に出たとき、吉永小百合は17歳になっていたが、15歳の中学生を自然に演じていた。この女優には、若年にして成熟を感じさせるところもあるが、いつまでも少女らしさを失わない未熟の魅力を感じさせるところもある。この映画の中の彼女は、その未熟な果実のような部分を十二分に発揮していたのだと思う。特に思いつめたような目つきをするときの彼女は、つい声をかけたくなるような可憐さを感じさせる。

15歳と言えば、普通はとっくに初潮を迎えているはずだが、この映画の中の少女はまだそれがないと言う。その少女を、街の不良どもが輪姦しようとする場面がある。少女は睡眠薬を飲まされて意識が朦朧としている。相手の不良たちは四人もいる。その不良たちに押さえつけられたら、少女の身としては抵抗するすべもなかろう。だが、少女はその絶体絶命の危機を奇跡的に逃れる。この少女には運命の女神が味方しているようなのだ。

その運命の女神を、この少女が怨む場面も出てくる。友達の好意から折角仕事に就けた父親が、やけをおこしてその仕事を辞めたとき、自分の前途をはかなんだ少女もやけを起こす。少女は楽しみにしていた修学旅行にも参加せず、一人で夜の街をふらつく。不良に強姦されそうになったのはその時のことだ。しかし少女は、持ち前の芯の強さで見事に立ち直る。彼女は何とかして高校に進学したいと思っており、また勉強もよくできるのだが、家のことを考えると、難しいものを感じる。しかしあきらめるにはあまりにも未練が強い。そこで思い悩んだ挙句、働きながら定時制高校に通う選択肢もあるということに思い至る。そう思うと、自分の未来が開けてくるように感じられるのだ。

父親は昔の職場の同僚の好意で、また仕事を見つけることができる。そこで娘に対して、昼間の高校に進学してもよいと勧める。しかし娘は、働きながら定時制の高校に通うのだと決意を告げる。親といえども、自分以外のものに頼るのではなく、自分の運命は自分自身の手で開いていきたいというのだ。この言葉を言うときの少女は、つまり吉永小百合は、一段と輝いて見えた。

その吉永演じる少女が、働きながら定時制高校で学ぶ決意を述べるときの言葉が感心だ。彼女は「あたいはダボハゼじゃない」というのだ・そのダボハゼ云々とは、自分の父親から「ダボハゼの子はダボハゼだから背伸びしてもしょうがない」と言われたことへの反発だった。彼女がこう言うのは、少女ながら考え抜いた結果だった。「人は弱いから貧乏人になるのか、それとも貧乏人だから弱いのか」。肝心なことは自分の気持を強く持つことだ。そうすれば自分の未来を自分で切り開いていける。そういう思いにたどり着いたからこそ、彼女は自分自身で生きてゆく道を選んだ、そんな感じが吉永演じる少女の精一杯の表情から伝わってくる。だれでも勇気づけられるに違いない。

この映画の中で描かれているのは、貧困、それも絶対的な貧困だ。当時の日本ではまだ多くの人々がそうした絶対的な貧困にあえいでいた。ましてや、在日朝鮮人たちはもっと悲惨な境遇にいた。この映画の中の朝鮮人たちも、そうした悲惨な境遇の人々だ。彼らを含めた社会的弱者たちへの眼差しが、この映画を重層的なものにしている。





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