壺齋散人の 映画探検
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田園に死す:寺山修二



「田園に死す」は、寺山修治の自伝的な色彩の濃い映画だと言われている。恐山とか、イタコが出てくるから、恐らく寺山の故郷である下北を舞台にしているのだろう。下北といえば、日本の極北とも言えるところで、貧困と因習に付きまとわれたというイメージが強い。寺山はそうしたイメージを逆手にとって、日本とは何かを描きたかったようだ。この映画の中で寺山が描いているのは、時代的には戦争中であったり、戦後間もないころの時代であったり、焦点が定まらないのだが、それはこの映画の構成が、一人の映画人が自分の少年時代を回想するというところから来ている。回想のなかでは、えてして時間の前後関係が曖昧になるものだし、出来事の記憶も錯綜するようになるものだ。

映画の主人公は十五歳の少年である。十五歳と言えば思春期の真っ最中だ。大人になりつつあることを気にし始めている少年は、自分が包茎であることや、まだ陰毛が生えてこないことにコンプレックスを感じている。そのくせ異性には旺盛な好奇心を持ち、隣の家に嫁いできた若い女に恋心を抱いている。そこで日頃うんざりしている母親との生活に見切りをつけて、この女と駆け落ちする決意をする。一方、少年の住んでいる村には、さまざまな出来事が起る。戦死広報が村を駆け巡ったり、乞食女がテテなし子を産んだり、サーカスがやってきて、空気女をはじめとした団員たちが、サーカスの出し物に劣らない奇妙な人間模様を繰り広げて見せたりだ。

ところがこうした光景はすべて、ある映画作家が作った映画の一こまだったのだ。その映画作家は、二十年前の自分自身を映画の中で描いているつもりなのだが、或ることがきっかけで、二十年前の自分自身に会いに行く決意をする。こうして映画の後半は、成人した自分と十五歳の自分とが、自分の本来のあり方を巡って議論しあうという体裁になっている。日本の映画としては、非常に観念的な要素が強い作品といえよう。

成人した自分は子どもの自分から、映画の中で描かれていることは、事実とは違うと批判される。自分は隣の若い女と駆け落ちしたことはなかったし、自分の周りに展開していた世界は、映画が描いているような牧歌的なものではなかった、それはじつにおぞましいものだった、というのだ。つまり自分が生きていた二十年前の日本は、どうみても住みよい世界ではなかった、というのである。これに対して成人の自分は、お前の生きていたのがそんなおぞましい世界だったとしても、それを変えることは可能だ、つまりお前の未来は書き換え可能だという。いぶかる少年の自分に向かって成人の自分は、俺の知っていることをお前は当然知らないけれども、お前の知っていることで俺の知らないことはない。だからお前が知らない間に、お前の未来が書き換えられても、お前は気がつくはずがない、と妙な理屈を言う。

こうして、成人の自分と少年の自分が共同して、自分たちなりの歴史を作り上げていく。その独自の歴史の空間のなかでは、隣の若い女は昔の恋人と出会い、心中することとなる。サーカスの空気女は、侏儒の亭主が外に女を作って出て行っても、また戻ってくると期待している、乞食女は生まれてきた子供を、人柱としてささげることを村人から強要され、水子として川に流してしまう。その女は一旦村からいなくなるが、すぐに戻ってくると、十五歳の自分の童貞を奪うのだ。

この映画の中では、十五歳の自分はいつでも十五歳だ。この映画の中にも時間は流れているはずなのだが、彼はなぜかいつでも十五歳なのだ。現実離れしているのは時間ばかりではない。少年は顔に白粉を施して、まるで仮面をかぶっているように見える。

十五歳の自分の顔が白いのと対照的に、母親の顔は煤で黒くなっている。この母親は何故か男のような顔つきだ。顔ばかりではない、体つきも男のようだ。それで筆者は、男に女を演じさせながら、声は吹き替えでごまかしているのかと思ったほどだ。

二人で共同のこの歴史の書き換え作業はどうもあまり具合よく進まなかった。というのも、成人した自分は最後には二十年前の母親を引き取り、一緒に暮らすことになるからだ。成人した自分は、なんとかこの母親と縁を切りたかったようなのだが、そうはならずに、二十年前の母親と一緒に、新宿の街のどまんなかで一緒に飯を食うハメになる。映画はその場面をスクリーンに映し出す。彼ら母子は、それ以後も一緒に飯を食い続けるだろというメーセージがそこからは伝わってくる。

こんなわけでこの映画は、寺山自身の少年時代を回顧した自伝的な作品だとしても、かなりひねこびているという印象を与える。自分の過去を回想するといいながら、そこに現出しているのは、現在の視点で再構成された過去なのである。その再構成の仕方も、かなり融通無碍なところがある。そこがこの映画の魅力なのかもしれないが。

この映画は、わかりにくいにもかかわらず、結構ヒットしたのである。





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