壺齋散人の 映画探検
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北野武の暴力映画「HANA-BI」:抑圧された身体性の叫び



映画作家としての北野武を、作家の赤坂真理は「『ほとんど暴力だけ』の作品を何作も続けて撮った」と言っているが、「HANA-BI」もやはり暴力の描写だけで成り立っている作品だ。この作品はヴェネチア映画祭で金獅子賞をとったくらいだから、世界的に評価されたわけだが、それは暴力の描き方が世界中の共感を呼んだからなのか。赤坂は、北野が描いた暴力を「時代に抑圧された身体性の叫び」と言っているが、そのような叫びが、北野が映画造りをしていた1990年代以降世界中に蔓延していたということなのか。

たしかにこの映画の中で北野によって振るわれる暴力は、人間的な叫びを思わせる。それは熟慮の結果なされたある種観念的な暴力ではなく、突発的な発作と形容してよいような暴力、つまり身体の叫びと言ってよいような暴力だ。北野が暴力を振るう相手は大体がやくざであり、そこには理屈も何もないから、暴力は身体の叫びのように、いわば痙攣のようにして爆発する。暴力を振るわれたものは無論、暴力を振るっている本人も、自分がなぜこんな痙攣的な発作にとらわれたのか、自分自身に説明できないといったフシが見えるのである。

北野の振るう暴力はきわめて人間的だ。そこからは暴力を振るわれた相手の痛みがストレートに伝わってくる。見ている観客までもが痛みを感じるほど、それは物理的な衝撃を伴っている。一方、暴力を振るっている北野自身の、放心したような陶酔感も伝わってくる。この映画のなかの暴力が人間的なのは、暴力を振るうほうも、振るわれるほうも、人間としての存在をすべてかけて暴力を体験しているからだ。

この映画は、暴力を(逆説的な言い方だが)美しく描くことに拘っているので、ストーリーは添え物に過ぎない。それは、突発する暴力に一定の自然らしさを見せかけるために機能しているに過ぎない。たとえば、北野がチンピラの目玉を箸でつついてつぶすシーンが出てくるが、前置き無しにそんなジーンをいきなり見せられたら、観客は度肝を抜かれるあまりに嫌悪感を覚えるに違いない。そうした嫌悪感というのは、なしですませられればそれに越したことはないので、そうした嫌悪感を覚えずにこのシーンに向き合えるよう、観客を誘導しなければならない。ストーリー展開は、そうした目的に奉仕する限りで機能しているのである。

暴力ほど人間の情動を激しく揺さぶるものはない。それは暴力が人間の想像力に訴えるからだ。暴力は人間の想像力に点火する。そのことで人間は人間としての限界いっぱいに想像力を羽ばたかせる。人間はそれによって、自分が日常のスケールを越えていわば膨張しているのを感じるのであるし、またそのことによって、自分の存在全体が叫んでいるようにも感じる。

このように暴力と想像力とは双子のようなものだ。だが想像力のほうは、暴力というかたちを取るだけではない。それは芸術的なイマジネーションという形をとることもある。北野はこの映画の中で、人間の想像力がとるイマジネーションの形をも示している。点描で描かれたシュールな絵の数々がそれだ。その絵の世界の中で、ヒマワリの花が動物の頭になったり、芭蕉の花が猫の目になったり、胡蝶蘭の花びらがこうもりやトンボの顔になったりする。形もユニークだが、色彩もユニークで華やかだ。

これらの絵は、北野自身が描いたのだそうだ。そうだとすれば北野は、画家としても優れた才能を有しているといえる。こんなファンタスティックな絵は、だれでも描けるというわけにはいかない。



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