壺齋散人の 映画探検
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極道の妻たち:五社英雄



「極道の妻たち」シリーズは、東映やくざ映画の黄金期が終わったあとに始まった、いわば付録のようなものだが、このシリーズで岩下志麻が大女優としての名声を確固たるものにした。だからこのシリーズは、岩下志麻のために作られたと言ってよいほどである。

内容は、気丈夫なやくざの女房が、懲役中の亭主にかわって渡世をしのぎ、場合によっては任された組の勢力を拡大しようとがんばる姿を描いたものだ。女の立ち回りがめずらしいこともあって、時代遅れの観は否めないものの、一定の評価を勝ち取った。だがその内容は、既存のやくざ映画の焼き直しと言ってよく、芸術的な価値は殆どない。シリーズ第一作目のこの作品は、後続の作品よりはましだと言われているが、やはりB級映画の評はまぬかれまい。

この映画に出演したときの岩下志麻は四十をとうに過ぎ、若さは失っていたが、その代わりに年輪がもたらすしぶさのようなものを存分に発揮して、新たな魅力を感じさせた。といっても、それは色気ではない。この映画のなかの岩下志麻は、女の色気は一切感じさせないのだ。感じさせるのは、長い人生を生きてきた女の、しぶとさのようなものだ。この映画の中の岩下志麻は、腹の底から搾り出したような渋い声で、なみいる男たちと対等以上に渡り合うのである。

岩下志麻演じるやくざの女房が、亭主の粟津が懲役に服しているあいだ、組を仕切るばかりか本家の人事抗争にもかかわってゆく。というのも、本家の大親分が死んだ後、跡目相続をめぐって争いが起り、かつての身内が敵味方に分かれて殺しあう中で、岩下志麻も先頭に立って戦うのだ。その戦い方が、とても女の姿とは思われない。敵方が「粟津の女狐」と言って恐れるほどだ。その戦いを勝ち抜いた女房は、服役中の亭主のために画策し、亭主を本家組織の大親分に担ぎ上げることに成功するのである。その亭主がやっと刑期を終えて、刑務所から出てきたところで、敵のチンピラによって射殺される。その亭主の倒れる姿を無念の表情で見つめる岩下志麻の姿を映しながら映画は終わるのである。

映画の始まりのほうは、岩下志麻が大勢の女たちを集めて大宴会を催すところを写す。この女たちは、だれもが亭主を刑務所に取られている。だから自分たちを「懲役やもめ」と言い、男日照りであそこに蜘蛛の巣が張ったなどと言い合っている。岩下志麻は、自分の組を仕切る一方、こうした不運な女たちの面倒まで見ているのである。

やくざにはやくざなりに仁義がある。仁義を忘れたらやくざという以前に、人間であるとは言われない。それを彼女らは、「(死んだ仲間のために)神や仏に手をあわす気持を忘れたらあかん、とりわけこの世界に生きるものはな」と言って、人と人とのつながりを、彼女らなりに大事にしているというわけである。

岩下志麻には、たったひとりの同胞として妹がいることになっていて、その妹というのが、姉の足を引っ張る役回りになっている。この妹はいささか足りないところがあって、やくざにだまされた挙句に強姦されるのであるが、自分を強姦した男に惚れてしまい、それがもとで姉と対決するハメになる。というのもその男は、姉にとっては敵方の先鋒なのだ。結局岩下志麻は、妹の亭主も含めて、敵方の連中を殺し尽くした上で、自分の亭主を本家組織のトップに据えることに成功するのだが、その亭主が刑務所を出たとたんに殺されてしまうというわけなのである。

妹の亭主が岩下志麻の前に現れて、女房を帰してくれと頼んできたとき、彼女はその男をにらみつけ、今回は逃がしてやるが、今度自分の目の前にあらわれたら、どういうことになるか、「ええな、よお覚えとき」とどすの聞いた声で脅す。その脅し方がいかにも念が入っていて、それこそ岩下志麻の素顔だと思わされるほどである。

こんなわけでこの映画は、B級の退屈な映画ではあるが、岩下志麻という女優の魅力に接するには不足ないといえるかもしれない。





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