壺齋散人の 映画探検
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少年H:降旗康男



降旗康男の映画「少年H」は、妹尾河童の自伝的小説を映画化したものである。妹尾が小学六年生から中学生にかけての少年時代に体験した同時代の日本がテーマだ。その時代はちょうど太平洋戦争の開始から敗戦までの、戦争の時代に相当する。だから少年の目から見た戦争時代の日本を描いているということになるわけだが、その少年の時代を見る目は非常に批判的である。少年の目には、日本のやっている戦争は無謀きわまりなく、また、それに向き合っている大人たちの態度は欺瞞だらけに映る。そんなことから、作品全体から反戦のメッセージが感じられると言う具合に、少なくとも映画の作り方のうえでは、なっている。

降旗康男がこの映画を作ったのは2013年のことだが、原作は1997年に出ている。原作のほうは、妹尾の自伝的な回想を小説にしたというだけのようだが、降旗がこれをあえて今の時代に映画化したのには、なにか特別の事情があるのかどうか、聞いてみたいところだ。

妹尾の原作に対しては、妹尾と同世代の作家から厳しい批判がなされたという。原作の主人公である少年は、かなり冷めた目で時代の様子を見つめ、それに対して批判的なのだが、当時の少年にそんな見方をしたものがいたとは到底考えられないというのがその根拠だったようだ。あの時代には、少年はすべて軍国少年であり、日本の指導者たちのしていることを無邪気に信じていた。だからそれに対して冷めた視線を向けたり、ましてや批判したりするなどということは、ありえなかったというわけである。

たしかにそうかもしれない。あの時代にあっては、大人たちでさえ戦争に全面的に協力し、戦争を批判するなど国賊的な行為だと思っていた。戦争を批判するのはアカのような連中の仕業であり、そんな連中は非国民として迫害しても当たり前だと、誰もが思っていた。そんな時代に、少年が時代に批判的であるなど、とても考えられない、という見方もありえないわけではない。

降旗は、こうした事情を飲み込みながらと思うが、映画の中で、少年に時代への厳しい視線を持たせている。この映画を見る限り、一人の少年の曇りのない目を通じてみた時代の異常性が描かれており、したがってかなりメッセージ性の強い反戦映画になっている。いまのこの時代に反戦映画が流行るとも思えないのだが、実情としては、この映画はそれなりにヒットした。一つには原作のネームバリューが高かったということもあったが、安倍政権が登場して、戦争の可能性が皆無ではなくなったと多くの人々が感ずるようになった事情も働いたのではないか。

少年の批判的な目を培わせたのは両親の影響ということになっている。両親は二人ともクリスチャンであり、また父親は洋服の仕立屋として西洋人と親しくしている。そんなこともあって偏狭なナショナリズムに毒されていない。それがもとで隣人たちの誤解を招いたり、官憲に拉致されて拷問されたりもする。しかし両親、特に父親のほうは、こういう時代にあっては、周囲とうまくやる必要があるという処世観も持っており、それなりに時代の空気に同調する柔軟性も持っている。だが、両親からリベラルな考え方を吹き込まれた少年には、時代は狂っているとしか見えない。見えないだけならまだしも、自分の考えをストレートに表現する。そこが周囲の少年仲間や大人たちの目にはけしからぬこととして映り、迫害を招くようになる。だが少年はそんな迫害を苦痛には思わない。彼には自分自身に忠実であることが大切なのである。

こういう姿勢を貫くのは、今の時代の大人たちでも珍しい。それが、軍国主義一辺倒のあの時代の少年に見られたというのは驚くべきことだ。だが映画というものは、リアルであらねばならないということはない。スクリーンの中ではそんな少年が何人いても、別に不都合はないわけである。降旗もそう思っているからこそ、この少年を思い切り理性的で批判的な存在として描き上げたわけだろう。

両親を演じた水谷豊と伊藤蘭は、実生活でも夫婦だ。その二人が映画の中でも仲のよい夫婦を演じていた。特に水谷の演技が、なかなか趣があって良い。クリスチャンとしての信仰を大事にしながら、それ故にこそ官憲による理不尽な拷問にも耐えながら、家族の安全を考えて時代の流れになるべく逆らおうとしないように心を砕く。そんなところを、気張りを感じさせずに自然に演じていた。

この映画の中で権力はグロテスクな姿をとって現れる。官憲は市民に向かって威張り散らし、大した根拠もなしに逮捕しては拷問を加えたりする。また、軍人のほうは、中学生たちを軍人の卵としてしか見ない。人間ではなく、戦闘のための消耗品のような扱い方をする。軍事訓練の中で、子供に向かって自爆攻撃を命令するところなどは、非人間的としか言いようがない。降旗には反権力的なところがあると言われるが、そんな姿勢が映画の中でもあらわれているのだろう。

なお、映画の中で少年の父が外国人の邸で大勢のユダヤ人と会い、彼らの綻びた服を修繕するシーンが出てくる。これらのユダヤ人は、あの杉原千畝の計らいでリトアニアから亡命してきた人々なのだろうが、映画では杉原の名を始め、詳しい情報はほとんど明らかにされていない。当時の日本人には、これらのユダヤ人の境遇や彼らに同情した日本の外交官についてわかっていたもののあろうはずがない、という配慮からだと思う。

題名にあるHは、妹尾の本名「肇」の頭文字だ。この頭文字を母親がセーターの胸の部分に飾り模様として縫い付ける。Hは英語だから適性の言葉だ、と周りの少年たちから指摘されると、Hはドイツ語にもある、ハイル・ヒットラーの頭文字だ、といって少年が理屈をこねるところが微笑ましい。ナチス・ドイツは当時の日本の同盟国だったから、ドイツを味方につけているかぎり安全だったのである。





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