壺齋散人の 映画探検
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赤い月:降旗康男



降旗康男の2004年の映画「赤い月」は、作詞家中西礼の同名の自伝的回想記を映画化したものである。筆者は原作を読んでいないので比較は出来ないが、映画を見る限り、中西の家族の満州での生活と、敗戦後における引き上げをテーマにしている。この手の話題はとかく引き上げの苦労話に収斂し、エモーショナルなものになりがちなのだが、この映画を見る限りは、社会的な視点を強く感じさせ、日本側の加害責任とか権力の無責任ぶりが取り上げられている。

加害責任という点では、日本軍による白系ロシア人への迫害とか、日本人開拓民が中国人の土地を収奪していることへの言及などが見られる。一方、ロシア側の侵攻による日本人社会の苦難についてもそれなりに描写しており、その点では日本側の加害責任だけを強調しているわけではなく、戦争がいかに非人間的なものであるかを、大局的な見地から描くという姿勢に徹している。

権力の腐敗ぶりという点では、敗戦後関東軍の軍人たちが現地の民間人を捨てて我がちに逃げ出す様子が描かれている。もっとも主人公の一家はその軍用列車に便乗するわけだから、自分からは表だってはそれを批判するわけにはいかない。そのかわり第三者に軍部の無責任さを批判させている。

映画では、主人公の父親は北海道から満州にわたってきて、そこで関東軍の庇護を受けながら酒造業を成功させたということになっている。その父親は仕事一筋の人間だが、母親のほうは多感なようで、男と遊ぶのが好きな女として描かれている。実際彼女には尻軽なところがあるのだ。その母親の尻軽さを、息子の中西が、幼いながらもどのように感じたか、それが映画からはかすかに伝わってくる。息子の中西は母親の尻軽さに耐えられないものを感じたようなのだ。というのもこの少年は、母親の情交場面を目撃したショックで、列車に飛び込もうとまでするのである。

母親が多感であるということは、ある意味生命力が旺盛だということだ。その旺盛な生命力のおかげで、母と子どもたちは生き延びることが出来た。一方、生命力に乏しい父親は、自らシベリアに行くことを選んでそこで死ぬことになる。自分が生き残るよりも、国に殉じる大義を選んだのだ。これは命よりも大義を重んじる姿勢であって、時には意味をもつこともあるかもしれないが、命が懸っている大事な場面では、それこそ命取りになる。これに反して母親は、どんな大義よりも自分自身が生き残ることを第一に考えるのだ。

この一家を含めて、敗戦後満州に取り残された日本人には過酷な運命が待っていたと思われるが、映画はそうしたところにも気を配っている。たとえば、数百人の日本人女性がロシア人による強姦を拒絶して集団自決したというような話が交わされたりする。しかし、この一家の場合には、母親が利口に振舞ったおかげで、そんなにひどい目にはあわずに日本へ戻る船に乗ることが出来た。そんなところにも、母親は生命力の強い女として描かれている。

その母親を常磐貴子が演じている。常磐は一家が順調な時には男好きの遊び人としての母親を演じ、敗戦後にはなんとか生き残ろうと必死になる強い女を演じる。戦前の日本にもこんなタイプの女性がいたのかと、改めて思わされる。圧巻はアヘンのために半ば廃人となったかつての恋人を自分の部屋に引き取り、その看病をする場面だ。彼女は譫妄状態で暴れる男を体を張って守り、挙げ句は自分も裸になって男を抱きしめる。その場面を子どもに見られて、お母さんは不潔だと責められると、生きていくには愛が必要なのだと開き直る。その剣幕に子どもたちは圧倒されて、それ以上母親を責める気にはならないのだ。

題名の赤い月とは、満州の大地に上る月のことをさすらしい。月がどのようにして赤く見えるのか、よくはわからないが、それはあまりよい兆候とは言えないというふうに映画からは伝わってくる。




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