壺齋散人の 映画探検
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お葬式:伊丹十三



「お葬式」は、伊丹十三の映画監督としての処女作である。処女作としては大変な評判となり、大ヒットをとったほか多くの映画賞も受賞した。この映画で、伊丹は一躍映画の大家になってしまったわけだ。ヒットしたわけは、葬式という非日常的でありながら、誰にでも起こりうる事態を、コミカルに描いて見せたことで、日本人の、死生観と言っては大げさだが、非日常的なものに関する意識の持ちように、大いに働きかけるところがあったためだろう。

伊丹は、自分自身の体験をもとにしてこの映画を作ったと言う。映画のなかでのシチュエーションは、伊丹自身の体験をそのままに再現したということらしい。妻(宮本信子)の父親がある日突然心臓発作を起こして死んでしまう。妻の両親は、主人公(伊丹自身の分身)の別荘に住んでいるのだが、葬式はここでやりたいと、妻が望む。それは、妻の母の望みでもあるわけだ。主人公(伊丹)はいやがるが、妻の強い望みには逆らえず、自分の別荘で葬式を出すことに同意する。名目上の喪主は、妻の母だが、実際には主人公(伊丹)が葬式を取り仕切ることになるわけだ。それも、ほとんど心の準備がないままに。死んだ翌日には通夜を催し、その翌日には火葬というハードなスケジュールだ。ゆっくり考えている暇はない。時間に追われるようにして、日程をこなしていかねばならない。そこには失敗もあれば、逸脱もある。

その辺の事情を、映画は再現して見せ、コミカルなタッチで展開してゆく。映画は二時間を越える長さなのだが、長さを感じさせない。テンポがいいためだ。

映画は妻の父親が心臓発作をおこして死ぬところから始まる。二人とも俳優である井上侘助(山崎勉)と千鶴子(宮本信子)の夫妻は、CMの撮影中に、妻の母親(菅井きん)からの電話で、その事実を知らされる。妻から自分たちの別荘で葬式を挙げたいと言われた井上は、父親の遺体を別荘に運び、葬式の準備にとりかかる。井上にはどのように運んで行ったらよいかよくわからない。そこで、ほとんど葬儀屋の言いなりになる。江戸家猫八演じるこの葬儀屋が、どこかいかがわしい雰囲気を漂わせている。葬式というものは本来いかがわしいものだ、笑顔で執行すると言うわけにはいなかい、とでも言うように。

井上は、マネージャーの里見(財津一郎)の助けを借りながら段取を進めていく。こういうときには、自分で何から何まで始末すると言うのは非常にハードだ。やはり分身となっていろいろやってくれる人がいると心強い。普通の人だったら、兄弟とか親戚とかがその役割を果たすのだろうが、井上の場合には、そういう人が身近にいない。里見は、肉親に負けないほどの誠実さで、井上を助けるということになっている。病院で会計をすましたり、通夜や告別式の受付を仕切ったりといった具合だ。会計を済ませるときに、治療費の請求額が予想よりもはるかに少ないことに、思わず笑いを漏らしてしまう。病院に担ぎ込まれたその日に死んでしまったわけだから、そんなに費用がかさむわけでもないのだが、死出の旅の費用としては、あまり安すぎると思ったのだろう。

通夜には、親戚やら近所の人たちが、思いかけず大勢押し寄せてくる。親戚はすべて妻方ということになっている。その代表格である叔父は、なにかと親戚風を吹かせて、井上に不快な思いをさせる。

不快と言うか、きまづい思いも井上はする。というのも、日頃の浮気相手の女(高瀬春奈)が通夜の場に押しかけてきて、井上を挑発するのだ。その女は発情しているらしく、井上を森のなかに誘い出して、そこでのセックスを迫る。井上は仕方なく、黒い礼服を着たままで、下半身を剥き出している女の背後から、一発お見舞いする。まるで立小便をするかのように。葬式の席では性欲が高まると言う俚諺があるが、このシーンはその俚諺にもとづいて伊丹が考案したのであろう。それにしてもこの森の中のセックスシーンは、人間が動物であることを如実に感じさせる。

妻の実家は真言宗だが、別荘の近辺には真言宗の寺がないというので、浄土真宗の坊さんがお経をあげにやってくる。これは葬儀屋の計らいだ。この坊さんと言うのが、ロールス・ロイスを乗り回したり、井上の家にあったイタリア製の装飾タイルに強い関心を示したりと、かなりの俗物なのだが、笠智衆が演じるとあまりいやらしくならない。

告別式の日は、朝から強い風が吹いて、その風に煽られて香典の札びらが飛んでしまうというハプニングが起こる。その場面が、ルネ・クレールの「自由を我等に」の中の一シーンを思い出させる。火葬場は森の中にあって、この日ここで焼かれるのは妻の父親だけだ。そんなこともあってか、火葬場の職員はリラックスして、火葬炉の中を遺族が覗くのを制止しない。こんなことは、東京では絶対考えられないことだ。その職員はまた、火葬という仕事についていろいろと講釈したりもする。我々が一番怖いのは遺体が火葬炉の中で生き返ることだなどと、出鱈目なことを言ったりする。そんなことのあるはずはないのだが、死人が墓のなかで生き返ると言うのは、古代以来の妄想であるから、その職員の妄想をあまり馬鹿にすることはできないかもしれぬ。

その職員は、遺体の状態に応じて焼く時間も異なると言う。健康な遺体ほど、早く、よく焼けるというのだ。赤ん坊の遺体などは、あまり強い火で焼くと、骨まで焼け尽きてしまうので、火加減を調節しなければならない。たしかにその通りで、赤ん坊の遺体はあっと言う間に焼けてしまうのである。

こんなわけでこの映画は、葬式をめぐるいろいろなことを取り上げ、我々に貴重な知識をもたらしてくれる。単なる娯楽にとどまらず、実用的な面も兼ね備えているわけだ。この映画が大ヒットした理由のひとつは、そんなところにあるのかもしれない。





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