壺齋散人の 映画探検
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あげまん:伊丹十三



伊丹十三の1990年公開映画「あげまん」は、「あげまん」という言葉がその年の流行語になったくらい評判になった。1990年といえば、バブルの絶頂期、日本経済が永久に右肩上がりで栄えていくだろうことを誰もが疑っていなかった。「あげまん」という言葉は、そんな時相にぴったりフィットしたわけだ。

だが、映画の中身は案外古風にできている。主人公は芸者だし、その芸者一途に男に尽くすという物語だ。芸者が男に尽くすというのは、必ずしも珍しいことではなかったが、それも一昔前までのこと、バブル絶頂期には、昔語りだったはずだ。その昔語りを引っ張り出してきて、それに当世風の味付けを施したと言うわけだが、その味付けが世の中の嗜好にマッチしたと言うのだから、日本人とは進化に乏しい民族なのかもしれぬ、などと思わせもするのである。

「あげまん」という言葉は、由緒のあやしい言葉だが、一応その当時には、男の運を上向かせる女、と言う風に説明されていた。それからの連想で、男の運を下向かせる女を「さげまん」、自分で運命を切り開く男を「あげちん」などと言ったものだ。このことからわかるように、「あげまん」という言葉には、下世話な響きがあった。それがまた、軽佻浮薄な時代の空気にマッチしたということだろう。

「あげまん」という言葉に相応しく、宮本信子演じる芸者のナヨ子は、仕える男の運を、なぜか上向かせる力がある。しかし、自分自身の運は別問題で、捧げた愛に報われることに乏しい。それでも愛する男の為ならば、何もかも捨てて尽くす、というけなげな女なのだ。

ナヨ子は捨て子だった。七月四日に拾われたことからナヨ子と名づけられたのだった。しかしナヨ子は、自分のそんな運命にこだわりを持っていない。彼女は一日一日を堅実に生きることが大事だと信じているのだ。中学生のときに置屋の奉公に出され、やがて芸者になり、十八歳で旦那を持たされた。相手は六十二歳の坊主である。この坊主がナヨ子の運にあやかって、とんとん拍子で出世して大僧正になったと思ったら、ぽっくりと死んでしまう。

こんなことがあって、いつしかナヨ子は、「あげまん」として人々の知る所となったのである。

彼女の運をあてにして、いろいろな男が言い寄ってくる。それらの男たちは、多かれ少なかれ政界とかかわりがある。彼女を妾にしたのは政界の黒幕と言われた老人だし、また、次期総理間違いなしと自他共に認めている男に強姦されたりする。そのほかにも、彼女の周囲には政治家たちが大勢登場して、どたばた騒ぎを演じる。この映画には、日本の政治家たちの権力欲を、笑い飛ばしているようなところがある。

彼女はだいたい男の愛玩物となって、男に受身で接する立場なのだが、ひとつだけ、違うことをすることになる。自分のほうから男を愛してしまうのだ。津川雅彦演じる銀行員とひょんなことで出会った彼女は、男との同棲生活を始める。すると男の運命はにわかに活気付いて、とんとん拍子で出世する。ところが出世して、あげまんに魅力を感じなくなった男は、あっさりと彼女を捨てる。そんな男に彼女は怒りをおぼえるが、そこは女心の悲しさ。男が、運命の変転で窮地に陥ると、身をなげうって男を助けるのだ。

こんなわけで、この映画はなんとも古めかしい人情劇を当世風の衣装に包みなおして見せたというものだ。

宮本信子は、半玉の初々しさから、油の乗った中年女の色気まで、満遍なくこなして演じていた。相手役の津川雅彦は、小心でそのくせ欲張りな男のエゴを心憎く演じていた。津川は、まじめな役をやらせると見ていられないほどの大根ぶりだが、道化をやらせると俄然味が出てくる。この映画は、津川としては快心の演技と言えるのではないか。

この映画のポイントは、先にも言ったように、当世政治批判である。いろいろな政治家が出てきて、それぞれ欲ぼけの限りを尽くす。1990年といえば、経済的にはバブルの絶頂であり、政治的には権力闘争がもっとも先鋭化した時代だ。そんな時代を背景にして、政治家たちの権力闘争が、コミカルに描かれているわけだ。

映画の中で出てくる政治家には、それぞれにモデルがあるのだろうと、当時の観客は受け止めたに違いない。特にナヨ子を強姦する政治家役の宝田明は、風貌といい、態度といい、当時有力政治家として知られていた某を思い出させるというので、一部で評判になったようだ。また、ナヨ子を妾にした黒幕にも、モデルがあるのだろうとの憶測が広がったようだ。筆者は、政界のことには疎いので、そのへんのことはよくわからない。

政治がらみで、ひとつ興味深いシーンがある。ナヨ子がパトロンの黒幕に、なぜそんなに政治が面白いか、と聞く場面である。ナヨ子の質問に答えて黒幕は言う。「政治は人間を自由に扱う、人間を自由に扱うほど面白いことはない」。今の政治家たちも多分、同じように考えているのだろう。





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