壺齋散人の 映画探検
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阿修羅の如く:森田芳光




森田芳光の映画「阿修羅の如く」は、1979年から翌年にかけてテレビで連続放送されたホームドラマを映画化したものである。原ドラマ自体がホームドラマとしてかなりゆるいところにきて、10年以上たっての映画化とあって、テーマの時代性も消え去ってしまい、今見ても無論、封切り当時の観客もいまひとつぴんとこなかったのではないか。

原ドラマ作者がこれをどういうつもりで作ったのか、忖度するしかないが、恐らく戦後の女の変りようを訴えたかったのだろうと思う。日本の女は伝統的に、商売女を除けば、貞淑で無私で、男によく尽くすというのが相場だった。ところがこの映画に出てくる女たちは、セックスに対して積極的であるし、自分自身を大切にする気概をもっている。そんな女は、一昔前には見かけなかったが、いまでは普通に見られるようになった。そこに原作者は時代の変化を感じ、このような話を作ったのではないか、どうもそんなふうに受け取れる。

女たちは四人姉妹である。長女(大竹しのぶ)は後家さんで男日照りを慰めるために他人の亭主と浮気を重ねている。次女(黒木瞳)は家庭の専業主婦で二人の子どももいるが、亭主の浮気に苦しんでいる。三女(深津絵理)は図書館の司書をして地味に暮らしている。四女(深田恭子)は弱いボクサーの男に夢中になり、男のアパートで同棲している。

そんな彼女らに、父親が浮気をしているという情報がもたらされる。この情報というのも、外部からやって来たのではなく、三女が興信所を雇って調べさせたのだ。彼女が何故そんなことをしたのか、映画は彼女の動機を明らかにしない。そこがまたホームドラマのゆるいところだといってしまえば身も蓋もないのだが、面白いのは、その興信所の社員である探偵と三女が仲良くなって結ばれてしまうことだ。これは父親にかかわる仕事が仲立ちしたといえるので、父親は彼女にとっては縁結びの神にも当たるわけだ。

四女は、恋人のボクサーに捨てられそうになるが、腹の中にできたものを人質にとって男の愛を取り戻す。しかし男は試合でさんざん殴られて頭がこわれてしまったらしく、意識不明の状態に陥ってしまうのだ。

次女は亭主の浮気に悩みながら、それを表沙汰にすることを憚る。そんなことをしたら大切な家庭が壊れてしまうと思うからだ。自分の母親も夫の浮気に耐えている。そのおかげで自分たちは家族の体面を保っていられる。女さえ我慢すれば、世の中はなんとか動いていくものだ。そんな殊勝な考えで自分を納得させようとするのだが、そこは女も感情の生き物、なかなか納得できないでいる。そこが古い女と今の女の違いだ、と作者は言いたいかのようである。

長女は四人姉妹の中ではある意味一番能天気だ。彼女はいまさら再婚する気にもなれないし、かといって一人寝もさびしいし、というわけで女房持ちの男を誘惑するのだが、これはそれまでの日本の女には見られなかったところだ。日本では、女が女房持ちの男に手を出すのは犯罪行為であって、社会の許すところではなかったのだが、この時代に入ってついに、そういう事態まで出来した、と作者は感慨をこめて訴えたかったのかもしれない。

父親(仲代達矢)というのがわけのわからない男で、七十過ぎのいい年をして、子連れの女ざかりを妾に囲っているのだが、その子に自分をパパと呼ばせている。いっそうわからないのは、女ざかりで器量も十人前のものが、好き好んで七十過ぎの老人の妾になるということだ。敗戦直後の未亡人受難時代ならあるいはそういうことも珍しくはなかったかもしれぬが、1980年前後の好景気の世の中で、そんなことがありえたとは驚きである。ましてこの映画は二十一世紀になってのものだから一層そのような感じがする。もっとも最近は、貧乏な若い女が援助交際と称して老人の慰めものになるケースもあるというが。

こんなわけでこの映画は、浮気な父親に娘たちがやきもきさせられるという、日本の家庭にはよくある話を面白おかしく組み立てたものだ。父親は、妻の死の床で娘たちから浮気を糾弾されるのだが、一向悪びれる様子がないし、娘たちもそれを徹底的にとがめようとはしない。浮気は男の甲斐性だという古い観念が、彼女たちの頭の中でも生きていたせいかも知れぬ。そんなことを思わせながらこの映画は終わる。




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