壺齋散人の 映画探検
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女ざかり:大林宣彦



少年少女たちの青春を描き続けた大林宣彦が、中年女性の生き方を描いたのが「女ざかり」だ。これは丸谷才一の同名の小説を映画化したものだが、原作はちょっとした社会現象のようなものを巻き起こした。まず「女ざかり」という言葉が目新しかった。それまでは壮年の男をさして「男ざかり」ということはあっても、「女ざかり」という言葉はなかった。女の命は娘盛りにあるので、それを過ぎた女はもはや「女」とは認識されなかった。ましてや中年の女に色気があるなどと、誰もが思わなかった。そういうような時勢の中で、四十を過ぎた女を「女ざかり」と表現した丸谷の原作は古い人間たちの度肝を抜いた。しかしその一方で、この言葉に拍手喝采した人々もいたわけで、それは自分たちの存在意義をそこに感じることのできた当の中年女性ばかりではなく、彼らと同世代の男たちにもうなずくべきところがあったのである。

この言葉で表現された女性たちは、戦後に生まれた最初の世代、所謂団塊の世代の女性たちだ。彼女たちが1990年代に中年の時期に差し掛かかった。これらの女性たちは、前の世代の女性たちとは全く違っていた。四十を超えてもまだまだ色気が溢れていたし、仕事を持ってバリバリ活躍している女性たちが多かった。そうした女性たちは、男の目にもまぶしく映った。当の男たちは、半分テレもあって自分から口に出すことはなかったが、丸谷が彼らに代わってこの言葉(女ざかり)を使うや、皆一様にうなずいたのである。今や本当の女盛りとは、娘盛りのことではなく、中年を迎えた女の魅力にある。そう誰もが思ったのである。

かくいう筆者も団塊の世代の生まれで、丸谷の原作が出た時には四十過ぎの中年オヤジとなっていた。その年でまわりの同年代の女性たちを眺めると、女の魅力にあふれた女性が沢山いた。筆者は丸谷の小説に出て来る女主人公と彼女らとを見比べて、彼女らが小説の中の女性同様あまりにも溌剌として見えたので、なるほど彼女らこそ「女ざかり」にあると感じ、それを言葉にも出して、彼女らを褒め称えた。いわく、「君はいまや女ざかりだね」と。すると彼女らは、まんざらでもない筈なのだが、なぜか皮肉な顔つきをして、意地悪そうな微笑を返してきたのであった。筆者としては最大限のお世辞を言っているつもりだったのだが、彼女らはそこに不純な動機を感じとったのかもしれない。

こんなわけで、丸谷の原作が大反響を生んでいるさなかに、この映画が作られた。しかも主演はあの吉永小百合である。吉永小百合は敗戦の年の生まれだが、彼女よりちょっと後に生まれてきた団塊の世代の男たちから絶大な思慕を寄せられてきた。若い頃の彼女は、それこそ団塊の世代の女神のような存在だったし、年をくって中年になっても、その魅力は衰えなかった。それどころか、美貌に知性のきらめきが加わって、ますます女としての輝きに満ちていた。そんな彼女こそ、「女ざかり」という言葉が相応しかった。だから原作同様、この映画も、団塊の世代を中心にして、多くの日本人に熱狂的に迎えられたのである。

最近二十年ぶりにこの映画を見直して、吉永小百合の美しさに改めて感嘆した。その美しさはやはり内面から出て来るものだろう。知性に加えて、世の中に向き合う姿勢のようなものに、美しさの根源のようなものを感じた。

映画の筋については、原作の筋同様ほとんど忘れてしまっていた。原作の筋書きは、新聞社の論説委員である主人公の女性が、同僚の男性とともにちょっとしたアヴァンチュール(セックスではない)を楽しむというものだったと思うが、映画の中では同僚との関係よりもセックス・フレンドとの関係の方に重点が置かれている。そのセックス・フレンドを津川雅彦が演じているのだが、大根の津川が女神の吉永を抱くシーンなどは、当時のサユリストたちを大いに悔しがらせたに違いない。一方三国連太郎演じる同僚のほうは、原作では知的で魅力のある初老の男(丸谷の分身のつもりだろう)になっていたのが、映画のなかではパッとしない役回りだ。この男は、吉永小百合演じる女性記者に片思いをしてうじうじとするばかりなのだ。そのあげくに「あなたとやりたい」などという文字を砂の上に書いて、いじけているのである。

吉永が政治的な陰謀に巻き込まれて苦境に陥った時に、彼女のために一肌脱ぐのは、その初老の同僚記者ではなく、津川演じるセックス・フレンドである。彼は大物政治家の力を借りようとして、人間関係をたよりに官房長官に近づき、彼女を苦境から救って欲しいと懇願する。官房長官はあっさりと了承する。いいなりになろうというのである。だがそれには条件がある、とこの官房長官は言う。政治家というものはタダでは仕事をしないものだ、だから金でも物でもなんでもいいから、見返りをよこせというのだ。その見返りを提供できなかったおかげで、彼の願いは実現しない。結局吉永は、自分自身のツテを利用して総理大臣に近づき、願いをかなえてもらうのである。これが映画の筋書きだが、それが原作でどうなっていたか、よく覚えていない。

この総理大臣はどうやら田中角栄がモデルのようである。映画の中では田中が一段と年をとった老人として出て来る。官房長官のほうは誰かと興味の湧くところだが、田中内閣の官房長官をやったのは二階堂進と竹下登の二人しかいない。そのどちらも金権体質で知られている。この映画の中の官房長官のモデルとして不足はないだろう。

吉永小百合が最後に言う言葉が印象的だ。彼女は自分の娘を演じる役者に向かって、「女盛りとは通り過ぎてから気づくもの、気が付いたら終わっている」というのだが、その言葉を吐いている彼女自身は、まだまだ女盛りとして伝わってくる。





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