壺齋散人の 映画探検
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根岸吉太郎「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」:太宰治の小説



2009年の映画「ヴィヨンの妻~桜桃とタンポポ」は、太宰治の短編小説「ヴィヨンの妻」の映画化である。筆者が原作を読んだのは半世紀も前の学生時代のことで、内容はほとんど忘れてしまったが、「人間失格」同様、太宰自身の自滅的な生き方が色濃く反映されたものだったと、おぼろげながら記憶している。今回映画でそれを見て、太宰の自滅的な生き方がかなり強調されているので、恐らく原作の雰囲気を生かしているのだろうと感じた次第だ。

生活能力のない男(浅野忠信)が、女を食い物にするヒモのような生き方をする一方、女が亭主の借金を返す為に外に働きに出るや、妻が浮気をしているのではないかと、疑いかつ嫉妬する。そんな男に妻(松たか子)は文句一つ言うわけでもなく、黙々として仕える。それなのに男は、妻が間男をしているのではないかと疑って、俺はコキュ(寝取られ亭主)になりたくないなどと悪態をつく。その挙句に男は、別の女と心中沙汰を起すのだ。それにショックを受けた女は言う。妻が他の男に寝とられた男がコキュだとしたら、夫に他の女と心中された女は何と言うのかと。

心中した男は、最初は殺人の、相手の女(広末涼子)が生き返ってからは殺人未遂の嫌疑をかけられる。そこで妻は昔の恋人でいまは弁護士になっている男に弁護を頼む。弁護士は報酬を要求する。金のあてがない女は、体で支払うことになる。そんな妻に向かって男は、弁護士とはどんな関係なのだと詰問する。妻は答える。とても恥ずかしくて口では言えないことをしました、と。

要するに完全に破綻した夫婦の話で、その破綻の原因は専ら男のほうにあるのだが、映画はそんな男を責めるでもなく、また、男の妻も夫を責めるでもない。男女平等が当たり前になった今の日本では、男はやり放題、それに対して女は忍の一字、といったこういう関係は、アナクロニズムといっていいはずなのだが、この映画は大ヒットしたし、原作者の太宰の小説は相変わらずベストセラーなのだそうだ。そういうことを見せられると、筆者などは不思議な気持に捉われてしまう。

映画のラストシーンは、さんざん勝手なことをやって、自分を苦しめてきた男を、妻が寛容な気持で許すところを描く。あなたを世間は人非人というけれど、人非人でいいではないですか。生きていくことが大事ですと。つまりこれからも一緒に生きていきましょうと呼びかけるわけだ。その呼びかけに男は答えるような仕草をする。映画はそこで終わる。それでよいのだ、と言うが如くに。

浅野忠信が自滅型の男の退廃的なムードをよく出している。松たか子はけなげに生きる女、それは昔の日本の女のひとつの典型だったと思うのだが、そういう雰囲気をよく出していた。和服姿が似合う。敗戦直後のことだから、普通の女はみな和服姿だった。この映画のなかで洋服を着ている女は、パンパンたちと広末演じる堕落した女だけだ。



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