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李相日「悪人」:抑圧の移譲



李相日の映画「悪人」は、なんともやりきれない思いにさせられる作品だ。金持ちの男に捨てられた女がプライドを傷つけられ、自分を慕う貧乏な男に八つ当たりした挙句、メチャクチャな脅迫をする、そこで自分の身に危険を感じた貧乏な男は、とっさに女を殺してしまう。それはその男にとっては、外に選択の余地のない強いられた行為だった。それでも人を殺すという行為は、社会的に許されるものではない。人を殺した人間は悪人として、社会から指弾されねばならない。

この映画が人を陰鬱にさせるのは、人を殺した男が、自分の自由な意思からそうしたのではなくて、ほかにどうしようもなく、いわば脅迫されるように殺したということにある。彼がそんな立場に追い込まれたのは、彼の生まれ育った境遇に理由があると映画はほのめかしている。

つまりこの映画は、人のなかには自分の置かれた境遇に逆らえない弱い存在になってしまっており、そういう弱い存在は、人から散々侮辱されたあげく、自分の切羽詰った行為がもとで悪人呼ばわりされる。そういう理不尽な目にあうのものが、今の日本社会では、決して例外的な存在ではない、と主張しているようなのだ。そういう意味ではかなりメッセージ性の高い映画である。

この映画の中の人間関係はかなり錯綜している。キーになるのは殺された女だ。この女は尻軽なうえに打算的なところがあって、貧乏な男とはセックスを通じて結びついており、金持ちの男には打算から近づいている。しかしその打算を見透かされて金持ちの男にひどい仕打ちを受けて捨てられてしまう。その現場を貧乏な男が見るわけだが、見られた女は自分の恥をさらしたようになって逆上し、あんたにレープされたといって訴えてやると嚇す。いわれのない言いがかりだ。そこで経験にとぼしい貧乏男は、どうしてよいかわからくなくなり、ついに女を殺してしまうのだ。

女を捨てた金持ち男には良心のかけらもない。女を殺した男は、最初は悪い女にひっかかったとして良心の呵責を感じていなかったが、出会いサイトで知り合った女と一緒にいるうちに、女の人間性に感化されて、自分のした行為を深く悔いるようになる。

貧乏男はついに指名手配されて逃走の身になる。それに女がついてゆく。女の妹はそんな姉をひどく責め、貧乏男の実の母親は、これまで息子を遺棄して顧みなかったにかかわらず、息子が殺人犯として指名手配されるや、そんな息子を責める。息子の味方は彼を育てた祖母だが、祖母は祖母で小悪党たちから金を巻き上げられたりひどい目にあっている。こういう構図の中で、そもそも事件のきっかけを作った金持ち男は、なんら反省することもない。そんな金持ち男を、殺された女の父親が付けねらう。しかし、金持ち男は、自分が手を下したわけではないから、別に法的な責任を問われるわけでもない。

というわけで、この映画の中の人間関係は、一番強いやつが弱いやつを足蹴にし、その足蹴にされたものが自分より更に弱いやつにあたり散らすという構図になっている。丸山真男が言った「抑圧の委譲」と同じようなシステムが成立しているわけだ。このシステムの中で一番バカをみるのは、最も弱いやつだということになる。

李相日がこの映画を作ったのは2010年のことだが、その頃には日本の格差社会化がかなり進行していて、強いものによる弱い者いじめも表面化してきたという背景がある。それを日本人はなかなか受け止められないようだが、在日朝鮮人の出自である李の目には、日本社会の闇を示すものとして強い印象を以て映ったのかもしれない。

以上、この映画の骨格は日本の新たな闇を描くことにある。それに映画としての色を添えるために、妻夫木聡演じる殺人者と深津絵理演じるハイミスの愛を絡めている。この二人の愛は、世の中から見捨てられたもの同士の結びつきという色合いが強。これは、日本人の愛の形としては、昔はよく見られたものの、高度成長期には無くなったと思われていたものが、格差社会になった今日、再び表面化してきたと言えるのではないか



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